めったに映画は見ないのだが、先日いま話題の「永遠の0」という映画を見に行った。簡潔で緊密なプロットで、ある特攻兵士の物語が語られる。大学を出て司法浪人の生活に目標を見失った青年が、姉に誘われて特攻兵士として死んだ宮部久蔵という祖父の生前を調べはじめ、そのことによって自分自身が変わっていく。詳しいストーリーは省くが、よくできたすじ回しで、じつに魅力的なウエルダンストーリーであると思う。
楽しむことが何よりの魅力的な映画に、くだくだしい理屈付けも野暮なのだが、あまり他の人が書いていないようなことをちょっとだけ書いてみたい。
この映画は、その構成が計算され尽くしたシンメトリーな様式性が美しい。主人公の青年と彼を取り巻く若者たちの弛緩した日常と、戦時下の若者たちの緊迫した生活が交互に描写される。また、主人公の青年も彼の(血はつながっていないが)いまの祖父も同じ司法の世界に生きる人間として設定されている。かたや司法試験不合格記録更新中の若者であり、かたやすでに半ばリタイアしたベテラン弁護士という違いはあるが。
だが、映像として最も美しいシンメリーが構成されているのは、戦時下に、妻と生まれたばかりの子のもとに帰った宮部が、一夜を明かして早朝自宅を出るときのシーンと、戦後、宮部に託されて彼の妻の生活をみてきた大石が自分の思いを打ち明けて彼女の家を出ようとするシーンである。どちらも去ろうとする男の背中を女が引き止める。女の必死な思いが男を立ち止まらせるが男は振り返らない。振り返らないで女の思いにこたえるのだ。相対して抱擁するよりはるかに濃密な、そして鮮烈なエロスがほとばしる。
もう一つの様式美は、ストーリーがきれいなループを描くことである。祖父の生きた証を求めて過去を探索していた主人公の青年は、結局自分の足元に真実が埋もれていたことを知ったのである。祖父の生前の姿を探求することが自分探しの旅でもあった。出発点と到着点が重なってくる。まさにO__オーでありゼロなのだ。そしてそのループOはいのちの連鎖でもある。
このすばらしいウエルダンストーリーに少しだけ疑問をはさめば、戦時下で非常識なほど家族思いでなおかつ主体的人間として描かれる宮部が特攻志願をすることが唐突すぎるのだ。前半の凛々しく人間愛にあふれた小隊長が、うってかわって退廃と自堕落なたたずまいで無為に生きるようになったのはなぜか。そこを描くことはこの映画の美学に反するのだろうか。
それから、最後に主人公の青年が橋の手すりにもたれて見上げる空にゼロ戦が飛ぶシーンはどう解釈すればいいのだろうか。映画としては岡田準一が入神の演技で戦艦に突入するシーンで完結ではなかったのか。
東京の空にゼロ戦が飛ぶというシーンは様々なことを考えさせる。もし、このシーンがなかったら、このウエルダンストーリーは荘重な、そして完結した悲劇だった。主人公の青年が見たゼロ戦には誰が乗っているのだろう。ループがもういちど廻って過去が未来になる日が来るのだろうか。
すばらしい映画にたいする取りとめもない駄文です。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
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