『万延元年のフットボール』以来、大江健三郎の小説にはいつも明確な標的が存在していた。それは「スーパー・マーケットの天皇」であり、「父」であり、「あの人」であり、「親方(パトロン)」であり、「怪(け)」であり、つねに「一者」であった。その標的に向かって、語り手はさまざまな意匠をこらしながら、執拗に確実に迫って対峙した。だが、『同時代ゲーム』には、そのような「一者」は見当たらない。対峙すべき「一者」は「壊す人」と「父=神主」の「二者」に分かれ、語り手の「僕」が、「父=神主」のスパルタ教育を全面的に受け入れながら、「壊す人」の神話あるいは歴史を書き記す、という複雑な構造になっている。語り手の「僕」が、というより作者の大江が真に対峙すべき相手は「壊す人」なのか、それとも「父=神主」なのか。いや、そもそも、この物語には、標的として対峙する存在は設定されているのだろうか。そこに向かって読者を巧妙に誘導していく「謎」は存在するのか?
「壊す人」の事跡は、「父=神主」の伝承の祖述という形式で語られる。「父=神主」の語る「壊す人」の死と再生とは、最初から神話であり、「昔のことなれば無かった事もあったにして聴かねばならぬ」とされるのだ。だから「阿呆船(ナーレン・シーフ)」というモチーフで語られる船での逃避行も、ダイナマイトによる爆破で黒焦げになりながら五十日後に回復するという奇跡も神話である以上、解釈の多様性は留保しても、伝承そのものは揺るがない「事実」であって、そこに謎の存在する余地はない。巨人化し過ぎた「壊す人」を殺して、そのすべてを「村=国家=小宇宙」の人々が全員で食べた、という伝説も同様である。
それでは解釈の多様性、それは両義性と言い換えてもよいと思うのだが、は謎をよぶだろうか。「父=神主」が語り、「僕」が双子の妹である「きみ」あての手紙に記す「壊す人」とその一行の伝承は、まず、幕藩体制の時代に四国の一地方で起こった出来事のように作品中に呈示される。だが、それは時間、空間ともに特定された一回的な出来事ではないだろう。共同体からの追放、あるいは脱出、新天地での植民という移動をともなった人間の集団行動は「村=国家=小宇宙(地球)」の規模で繰り返されてきた。旧約聖書「出エジプト記」はモーセという「壊す人」に率いられたヘブライの民の貴種流離譚であるが、「天孫降臨」の神話で語られる日本の王朝成立史の中心に存在するのも「壊す人」である。そして、移動をともなった人間の集団行動とは、新たに植民した側にとっては「新天地の開拓」であるが、先住していた人々にとっては「征服」されたということなのだ。語り手の「僕」が「壊す人」への全存在的な帰依を表明しながらも、同時に「自己処罰」の思いから自由になれなかったのはそのためである。
征服と被征服の関係はコインの両面のようなもので、その両義性はそれ自体謎をよぶものではない。だから『同時代ゲーム』という作品のなかで何度も繰り返される「壊す人」の伝承とその解釈は、民俗学の教科書のように思えてくる。
私にとって、謎は、たぶん、取るに足りない事柄なのだろうが、双子の妹との近親相姦(未遂?)の前後に語り手の「僕」が妹と交わした会話の中の「壊す人の遊び」と呼ばれる行為にある。「壊す人の遊び」とは、子供たちが、一日あらゆる反道徳的なことをする。そして一日の終わりに、穴に閉じこもっていた「壊す人」に扮した子供に罰せられるという奇態な祝祭なのだが、「僕」はその遊びの日に片眼の子供に仮装し、ただ片方の眼をつぶったまま小半日を過ごした、と書かれていることである。『万延元年のフットボール』の根所蜜三郎も「怯えと怒りのパニックにおちいった小学生の一団」が投げた石礫に撃たれて片方の視力を失っている。大江健三郎はなにゆえに「片眼」にこだわるのか?
それからもう一つ、物語の最後、「僕」が満月の夜、森の中に入って行くときに、「食い物にまぜて、躰のなかにいれようかと思ったこともあった」妹の化粧道具の紅の粉を全身に塗りたくったのはなぜか。『万延元年のフットボール』の冒頭、浄化槽の穴にうずくまって観照した知人の死_「朱色の顔料で頭と顔をぬりつぶし、素裸で肛門に胡瓜をさしこみ、縊死した」とあるのと関係があるのだろうか。さらにいえば、最終章「第六の手紙 村=国家=小宇宙の森」で描写される「父=神主」の奇抜な扮装も「朱色に染めた棕櫚の毛の蓬髪をいただき、おなじく朱色の天狗の面をかぶっていた。もともとその足そのものが末端巨大症のように大きい父=神主の、その足を覆っている大沓も、棕櫚の毛を植え込んで赤黒い獣の足のようだ。そして、それより他はまったくの裸で、父=神主はその全身に、朱の文様を描いていたのだ。もっともペニスは朱の鞘に突っ込み、尻からはおなじく朱の棒を出して、両者を結んだ紐は腰に廻されていた」と朱色ずくめである。朱色には魔よけ以外の意味があるのだろうか。
私に謎と感じられることがこの作品にはもう一つあって、それは「第三の手紙 「牛鬼」および「暗がりの神」」で語られる亀井銘助という人物についてである。だが、長くなるので、それについてはまた回をあらためたいと思う。
今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
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