『同時代ゲーム』は「第一の手紙 メキシコから時のはじまりにむかって」の章から書き出される。ほとんどの文学作品と同じように、この長編も冒頭のこの章にすべての要素が含まれているといっていいだろう。語り手の「僕」は、いまや「壊す人」の巫女になったという双子の妹であり、僕の分身でもある「きみ」に手紙を書く。その手紙は、巫女になった妹をつうじた「壊す人」あてのものでもあり、「壊す人」に率いられた故郷の「村=国家=小宇宙」の神話と歴史の叙述でもある。しかし、なぜ「メキシコから」書き出さねばならなかったのか。
「僕がこの発心にいたったマリナルコという町は、荒野にむけて迫った山巓の裾をわずかに拓いた、あらかた斜面の集落だが、メキシコの古い町の御多分に漏れず、そこに住んできた人間の歴史は永く、かつ捩曲がっている」と書かれるマリナルコという町の地理的、歴史的条件が、故郷の「村=国家=小宇宙」のそれと酷似していた、という理由がもちろんあげられるだろう。侵略、破壊、征服の跡が刻まれた風土。だが、「僕」が「発心」という言葉で表した決意の強さはそれだけによるではない。むしろそれ以上に二つの事柄が、いわば啓示となって「僕」をうながしたのだ。
一つは、東独から亡命し、アメリカ国籍をもち、現地の混血の若い妻と暮らす男からの情報である。アルフレート・ミュンツアーという日本語を話すその男は、マリナルコの土地を買いたいという旅行会社の添乗員に会ったという。その添乗員は「僕」と同じ「村=国家=小宇宙」出身で、長老に引率された彼の郷里の人間が新しい国を造るために土地を探すのが自分の役割だといったと言うのだ。そして、その添乗員がマリナルコの土地こそそれにふさわしいとした選択は、「僕」の「内臓感覚」において、正しいものと直覚されたのである。
もう一つは、アルフレート・ミュンツアーの話を聞きながら覚え始めていた歯痛__これがその「内臓感覚」を支えていたのだが__こちらのほうがより大きなそして強い啓示となったのかもしれない。少年時からつねに歯痛に悩まされていた「僕」は、しばしば、みずから歯あるいは歯茎を切開するという治療、というより自損行為を行った。痛みを極限まで顕在化させることで、「壊す人」の救済を待望したのだった。時をへだてて再び襲ってきた歯痛にたいして、「僕」はピラミッド遺跡から掘り出した石斧を手にすると、かつてと同じように、腫れた歯茎にうちあてた。それは、その石斧を使って、荒地を堀りおこすこと_新植民地建設の祭りを自分一人で行うことを「壊す人」が禁止する声を聞いたからである。ならば石斧は「壊す人」への帰依のための自損に使われなければならない。
こうして、「壊す人」への全存在的な帰依の感覚の甦りのうちに、「僕」は自分の役割を果たすことにのみ集中していったのだ。すなわち「父=神主」からスパルタ教育(この言葉もつねにこう書かれる)で口承された「村=国家=小宇宙」の神話と歴史を書くという行為に。
だが、ここに不思議なことが一つある。それほどまでに全存在的な帰依の感覚をもつ「僕」も「父=神主」もそして「僕」の分身でもある双子の妹も、厳密な意味では「村=国家=小宇宙」の内部の人間ではないのである。「父=神主」は「三島神社」の神官として外部から赴任してきた人間で、しかもロシア人の血をひき、母は一時期谷間に居ついた旅芸人で、「僕」を含む五人の子を生した後に谷間から追い出されてしまったのだ。「父=神主」は神官として村=国家=小宇宙」の最も高い所に居て、五人の子供たちは洪水になると、糞尿のまじった濁流が流れ込む谷間の最下層の家に住んでいた。「村=国家=小宇宙」を上下に挟んで、その神話と歴史の伝承に存在を賭けるという父と子の行為は何を意味するのだろうか。そのことは、「村=国家=小宇宙」から数万キロ離れたメキシコから「壊す人」の神話と歴史を書き始めるということと関係があるのだろうか。
少し先を急ぎすぎてしまったようである。「僕」のメキシコでの体験については、まだ書かなければならないことが多すぎるくらいあるのだが、それはまた回を改めたい。
今日もまとまらない文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
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