竹内康浩先生の「ライ麦畑についてもう何も言いたくない」のもじりではない。竹内先生の本は大変興味深く読んだ。先生とは「1946年7月18日」の日付にかんしては、ニアミスくらいに意見の接近があったのだが、でもとても遠く離れてしまった。サリンジャーについて、言いたいことはたくさんあるような気がするが、それは書かないで「読書の楽しみ」として私のなかであたためておこうと思っている。少なくともいまは。
ただ、何も書かなくなる前に、もう一度「サリンジャー現象」について考えてみたい。前回私は、文学をあのようなかたちで「消費」してしまっていいのだろうか、と疑問を呈した。文学を受容するとき、どのようなしかたが一番「正しい」のか、ということである。それは人それぞれだろう、という答えがすぐに聞こえてくるような気がする。だが、ほんとうにそうなのか。つきつめれば、「文学とは何か」という根源的な問いになる。
坪内逍遥が「小説の主脳は人情にあり。世態風俗これに次ぐ」と、意識的にミスリードして以来、この国の近代文学の受容は、ずいぶん偏ったありかたになってしまったのではないか。文学は心理学や精神分析学ではない。いうまでもなくオカルトでもない。もちろん社会学でもないけれど、つねに、それが生み出された時代__「時」との緊張関係においてとらえられるべきだ。私自身はまったく社交的な人間ではなく、ひとりでいることが大好きだが、それでも地球上で決して一人では生存できない「ヒト」が「人間」であるために、「ひと」は必ず「社会」の一員として生きなければならない。どのように生きたか、あるいは生きるための葛藤があったか、を書かずにいられないのが文学者だろう。人間が社会的存在でないならば、文学も言葉も何の必要もない。
revealと言う言葉がある。隠されていたことがあきらかになる、あきらかにする、と言う意味で、自動詞にも他動詞にも使う。自然にあきらかになれば「啓示」であろうし、努力してあきらかにすれば「啓蒙」であろう。「暴露」という意味もあるが。あきらかにしようとしてあきらかになる、ということが必ずしもhappyとは限らない。無明の闇に沈んだままがよかった、ということもある。ホールデンが西部の町で、唖でつんぼのまねをして森のはずれに小屋を建て住みたいと願ったように、時間も空間も区別のない無明の闇の平和を願う自分が、私のどこかに存在するのではないかと思ったりもする。
最後に、それでも、やはり、このブログを読んでくださっている方たちに、二つだけ一緒に考えていただきたいと思う。「赤いハンチング」とは何か。「セントラルパークの池の家鴨(と魚)」とは何か。それから、『ナイン・ストーリーズ』の諸作品について、とくに「ド・ドーミエ=スミスの青の時代」については、もっと考えなくてはいけないことがあるのに気づいた。『ライ麦畑でつかまえて」』と『ナイン・ストーリーズ』は相互補完的な関係にあると思う。サリンジャーの表現はつねに両義的なのだ。
でも、また書きたくなるかもしれません。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
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