2012年1月31日火曜日

「罪なき者まず石を打て」___法の内面化

 「酒鬼薔薇」と名のる少年の事件が起こったのは十数年前のことだった。衝撃的な事実が報道され、非常に特殊な事件だったにもかかわらず、当時子どもをもつ親だけでなく、多くの人がこの事件を自分のこととして受け止めた。一人事件を起こした少年だけでなく、私たちが築き上げ、それなりの成熟度に達した日本の社会の側にも問題があるのではないかという議論が起こりつつあったと思う。

 だが、少年法の規定で裁判が公開されなかったこともあって、事件にたいする関心は次第に薄れていった。その後も少年による犯罪は相次いだのだが、興味本位な報道が多く、事件の核心に迫ろうという姿勢はほとんど見られなかった。気がつけば、世の中の風潮が、少年法だけでなく、一般に刑法というものの厳罰化に向かっているように思われる。それでよいのだろうか。「罪なき者まず石を打て」ではなかったか。

 「罪なき者まず石を打て」はヨハネによる福音書だけが伝えるエピソードである。朝早くイエスが神殿で民衆に教えていると、ユダヤ人指導者たちが、イエスを陥れようとして、姦淫した女を連れて来た。そして「律法では、こういう女は石で打ち殺せと命じているが」とイエスに問いかけた。だが、イエスは無言で、地面に指で何か書き続けているだけだった。再三の問いかけにイエスは答える。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」この言葉に、年長者から始まって、一人また一人と立ち去っていった。一人残った女にイエスは言う。「私もあなたを罪に定めない。これからは、もう罪を犯してはならない。」

 旧約聖書の伝える「律法」の規定は、具体的かつ厳格である。それはけっして体系的、概念的な「法律」ではない。少なくとも近代的な「法」ではなく、「刑罰の定め」という印象を受ける。非常に細かく複雑な刑罰で、しかも現代の私たちの感覚ではきわめて過酷である。独裁者の恣意で罰せられるのではなく、きちんと成文化した規定で罰せられるのだから、合理的であるとはいえようが。ユダヤ人指導者たちは、イエスに「(この過酷な)律法に従って、この女を殺せ、と命じるのか。命じなければ、法を破る、すなわち神に逆らうことになる」と迫った。律法の形式的な厳格性を利用して、自分たちは手を洗って高みの見物のまま、イエスの判断の言葉尻をとらえようとしたのだ。イエスは答えなかった。そして、問題を彼らユダヤ人指導者たちに投げ返したのだった。あなたたち自身は裁くことができるのか、と。

 このエピソードはヨハネだけが伝えている。マタイによる福音書には、同じく姦淫の罪について「みだらな思いで他人の妻を見る者は誰でも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたを躓かせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである」というイエスの言葉がある。とても、同じ人物の言葉とは思えない。このエピソードはヨハネが創作したものだろうか。それとも、マタイの方が創作なのだろうか。いずれにしろヨハネの描くイエス像は四福音書の中で非常に個性的である。イエスは、真理そのものでありながら、真理を説いて、人々を真理に導く教師として描かれているように思われる。イエスに問う人に、イエスは問い返す。「あなたはどうするのか」と。問いかけて、立ち止まらせて、その問いが自分に向けられたものだということに気づかせるのだ。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

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