2012年1月25日水曜日

「初めに言(ことば)ありき」____人間たらしめるもの

ヨハネによる福音書は不思議な書物である。イエスの事跡を伝えるのに、マタイのように「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」とルーツをたどることもなく、ルカが伝える美しいクリスマスストーリーとも無縁である。「神の子イエス・キリストの福音の初め。」と力強く宣言するマルコとも違う書き出しだ。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」と旧約の創世記と同じように「初めに・・・があった。」と天地創造を語り始める。天地創造を、ことばによって認識するのでなく、天地創造の原初に、ことばが「あった」とするのである。そして、その「ことば」によってすべてが成り、その「ことば」のうちに命があった、とする。言い捨てられて消滅してしまう「ことのは」でなく、原初から存在し、すべてを成り立たせる働きをするもの、生きて動く「いのち」あるものが「ことば」である、と。

 以上のような形而上学的記述は、論理としては理解しうるとしても、実感として「わかる」とはとてもいえない。私が実感として「初めにことばありき」を理解できたのは、もう十数年以上前、子どもの勉強をみる仕事をしていたときのことである。

 初めて彼女に会ったのは、彼女が五年生の時だった。「うちでは勉強をみてやれなくて」と母親がつれてきたのだが、まず驚いたのが、必ず指を使って計算することだった。暗算という概念はないようだった。それから本を読めないことだった。内容がわからないといったことではなくて、音読ということができないのだ。一行上から下に読み下すことができなくて、何度も同じところを行ったり来たりしてしまう。ある程度以上の分量になると、文字を「ことば」というまとまりとして読み取れなくなるようだった。お話することも上手ではなかった。いつも、同じ女の子の絵をかいていた。

 私にできることは、徹底して彼女の話を「聞く」ことだけだった。彼女から「ことば」をひきだすこと、彼女が、自分のうちに「ことば」をもっているということに気づかせること、同時に世界は「ことば」で成り立っているということを理解させること、そのためには、まず、彼女を受け入れ、彼女から聞かなければならなかった。数の概念や読書感想文はそのずっと後だった。そう、「初めにことばありき」だったのだ。

 彼女との数年間は楽しかった。私が彼女に教えたことより、彼女から私が学んだことのほうがずっと多かった。とくに、人が言葉を習得するとはどういうことなのかについて、考えさせられた。いまでも考えている。ことばによって、ことばの内にある命の光によって、人は人たらしめられるのだろう、と思っている。ことばを奪ってはならないし、ことばを失いたくない。希望はことばにしかないから。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございました。

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