永田耕衣さんのファンである。もう亡くなってしまわれたけれど。阪神淡路大震災に遭遇されて、トイレに入っていて助かった。その体験を詠んだ俳句が当時の新聞に掲載されていて、その前衛ぶりに目を瞠いた覚えがある。残念ながらその十七文字を忘れてしまったので、何とか探したいと思っている。いま手もとに句集『生死(しょうじ)』があるが、平成二年までの自選集なので、大震災後の句はない。
もともと謎解き、パロディの要素を強く持つ俳句は、注釈抜きで私ごときが理解できるものは少ない。とくに永田耕衣のように「乾坤一擲」といった趣のある句は、読んですぐわかるものはわずかだ。それでも、標題の「男老いて男を愛す葛の花」は、あっけらかんとわかり過ぎるくらいに
「葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり 釈超空」を踏まえたものだ。この歌は以前『「あたらし」と「あらたし」_折口信夫』で取り上げたもので、折口(歌人として釈超空を名のる)の処女歌集『海山のあひだ』の巻頭の歌である。折口は同性愛者で、この『海山のあひだ』は「この集をまづ與へむと思ふ子あるに__かの子らや われに知られぬ妻とりて、生きのひそけさに わびつつをゐむ」と始まる。折口の歌二首が、いかにも折口らしい、抑制しようとしてもしきれぬ情念の屈折をうかがわせるものであるのにたいして、永田耕衣の俳句はそのものずばり、単純明快である。「男を愛す葛の花」何が悪いか、と痛快だ。
この句の少し前には、「室生寺行 妻同伴」と前書して
「組みて老い来にけり凄し葛の道」という句がある。「葛の道」は実景であろうが、やはり浄瑠璃「葛の葉」の「恋しくば尋ね来てみよ 和泉なる信田の森のうらみ葛の葉」が響いてくるようだ。それにしても「組みて老い来にけり」とはほんとうに「凄い」。女人高野と呼ばれる室生寺への道は険しく、境内もまた起伏に富んだものだったように思われるが、「凄し」は道だけにかかることばではないだろう。
「死ぬほどの愛に留まる若葉かな」
はて、この句はどういう意味でしょう。まったくわからないのだが、この句の少し前に
「生は死の痕跡吹くは春の風」という句がある。こちらが、乾いた、でも生暖かいニヒリズムという感覚の句なのにたいして、「死ぬほどの」の句はそのニヒリズムを瞬間超えたものがあるように感じる。
大震災に遭遇されても、奇跡的に生き延びた耕衣さんだったが、骨折がもとで、俳句を書けなくなり、その後しばらくして亡くなられた。百歳までも生きられると思ったのに。
「虎杖のぽんと折るると折れざると」
いつまでも折れないと思っていたのだが。
今日も、出来の悪い感想文を読んでくださってありがとうございます。
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