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2017年10月13日金曜日

大江健三郎『晩年様式集』__終活ノートの告白__塙吾良の「ありえない」死と伊丹十三

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 前回の「ウソの山のアリジゴクの穴から」で次回は塙吾良の死について書く、と言っておきながらどうしても書けないでいる。ひとつには、塙吾良のモデルである伊丹十三の事件が、小説の外側の現実から投げかける影があまりにも大きく深刻だからである。そしてもうひとつ、小説のなかで説明される事件...
2017年9月4日月曜日

大江健三郎『晩年様式集』__終活ノートの告白__「ウソの山のアリジゴクの穴から」

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 告発者アサの告発は二つある。一つは、作家の「私」の書いてきた作品のウソについて。もう一つはギー兄さんの死の真相について。この二つは方法論と中身の問題で、つきつめれば、「ギー兄さんの死」__「塙吾良の死」の究明が目的だと思われる。  小説のウソと本当のことについて、『憂い顔の...
2017年8月16日水曜日

大江健三郎『晩年様式集』_____終活ノートの告白その1_「三・一一」とは何か

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 「イン・レイト・スタイル」とルビが振られたこの小説について、何か月も何も書けないでいる。ひとえに私が怠惰なためである。これを書こう、という意欲がどうしても湧きあがらないのだ。言い訳じみたことをいえば、読後感が散漫なのである。もっといえば、「物語」が語られないのだ。いくつかの、非...
2017年5月10日水曜日

『紙屋悦子の青春』その3_______そして海ヘ___マッチ擦るつかのま海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや

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 以前「マッチ擦るつかのま海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや」の歌を「寺山修司の世界」とサブタイトルをつけて取り上げたことがあった。そこで私は決定的な間違いをしていたと思う。  「マッチ擦るつかのま海に霧深し」の上句五・七・五と  「身捨つるほどの祖国はありや」下句七・七...
2017年4月30日日曜日

『紙屋悦子の青春』その2__弁当箱で決めた結婚

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  『紙屋悦子の青春』の回想場面は「鹿児島県米ノ津町 昭和二十年三月三十日」という文字が黒地に白抜きで現れ、続いて、前回書いた通り、汽笛の音とともに紙屋家の前景が映しだされる。手前に竹(前回「藁のようなもの」と書いたのは細い竹のようである)で組まれた低い塀があって、そのすぐ向こう...
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