2023年7月30日日曜日

宮澤賢治『飢餓陣営』__国家の超克とキリスト教への接近__オペレッタで語る極限状況

  宮澤賢治『飢餓陣営』について、いつまでも考えている。

 「コミック オペレット」と注がついた一幕物の戯曲である。主人公の名をとって「バナナン大将」という題名のものが一九二二年六月に作られ、翌一九二三年五月、花巻農学校が県立となった開校式の日に上演された。賢治は当時この農学校の教師であり、記念としてこの劇と、もうひとつやはり自作の『植物医師』という劇を、みずから演出し生徒を俳優にして上演している。県立高校として出発する開校式の舞台で演じられたこの二つの劇はかなり不穏な要素がおりこまれているが、観客はどのように鑑賞したのだろうか。

 『植物医師』のあらすじは、上官を殴って退職した元役人が、枯れた陸稲をもって次々相談に来る農民たちに生半可な知識で亜ヒ酸を売りつけ、亜ヒ酸で陸稲を全滅させてしまうのだが、なぜか農民たちは元役人を許してしまう。「一年旱魃の事もあるから」、と全滅の陸稲をあきらめるのである。「植物医師」をかたる「爾薩待正」という不思議な名前の元役人の軽薄な詐欺師ぶりと、「医者さんもあんまりがおれないで、折角みっしりやったらよがべ」と「植物医師」をゆるしてはげます農民の不気味な諦念が印象的である。「郷土喜劇」と名付けたこの戯曲の農民のセリフは徹底して方言が用いられている。

 戯曲『飢餓陣営』は、餓死寸前の兵士たちが大将が身につけた勲章を食べてしまうという奇想天外な話である。

 舞台は「砲弾にて破損せる古き穀倉の内部、からくも全滅を免れしバナナン軍団、マルトン原の臨時幕営」と設定される。ここに、舞台の左右から曹長、特務曹長を先頭に兵士が六人ずつ登場し、それぞれに大将の不在と自分たちの飢餓を訴え、退場する。一時半、二時、四時、四時半と時が刻まれ、そのつど兵士たちは舞台に現れて空腹を訴え、退場する。状況は変わらず、七時半、八時と夜になって、兵士たちの疲労と衰弱は甚だしいものがある。かろうじて立っていられる兵士たちは

 「いくさで死ぬならあきらめもするが
  いまごろ餓えて死にたくはない
  ああただひときれこの世のなごりに
  バナナかなにかを 食いたいな。」

と合唱して、その後全員倒れてしまう。銅鑼が鳴る。

 そしてバナナン大将が登場する。「バナナのエポレットを飾り、菓子の勲章を胸に満たせり。」といういでたちである。幕営に兵士たちを残して、どこへ行っていたかわからないが、「いったいすこうし飲み過ぎたのだし
 馬肉もあんまり食いすぎた」
と、自分だけたらふく飲み食いしてきたようである。あげく、「つかれたつかれたすっかりつかれた」と言って、真っ暗な中で倒れている兵士たちを「灯をつけろ、間抜けめ。」と罵り、かろうじて立ちあがった彼らをみて「どれもみんなまるで泥人形だ。」と何の同情もない。

 悲惨な状況設定であり、不思議でもある。敗色濃厚な戦場で糧食もなく餓死寸前で「泥人形のよう」になってしまった部下を残して、大将が幕営を後にして出かけたのは何故だろう。食料を調達するために周辺を探したのか。残された曹長と特務曹長は
「大将ひとりでどこかの並み木の
 りんごをたたいているかもしれない
 大将いまごろどこかのはたけで
 にんじんがりがり、かんでるぞ。」
と想像しているのだが、そもそも大将は菓子でできた勲章で身を飾っているのだから、すくなくとも自分は食料を調達する必要はないはずである。

 ともかく、バナナン大将は、自分だけどこかでゲップするまで飲み食いしてきて、眠りこけてしまう。これが「コミック オペレット」と銘打たれた劇の出だしである。敗残の兵士たちの切実な飢餓と対照的な大将の満腹感がリアルに描かれている。だが、同時に大将の勲章が菓子でできている、というあり得ない設定があって、観客はその不条理をかかえたまま劇の進行についてゆくしかない。

 兵士たちは、眠り込んだ大将の勲章を食べたいという欲求を抑えられない。曹長は「大将の勲章を食べるいうわけにはいかないか」と特務曹長に問い、特務曹長は「軍人が名誉ある勲章を食ってしまうという前例はない。」し、「食ったら軍法会議」で「銃殺にきまっている。」と答える。「軍法会議」だの「銃殺」だの、リアルな恐怖をあたえることばだが、そもそも「軍人が名誉ある勲章を食ってしまうという」「前例」がないのではなく、「勲章を食ってしまう」ことが「不可能」なのである。このあたりから、役者が深刻な状況を真面目に演じると、それがそのまま、現実の感覚とちぐはぐでおかしいのだ。

 「不可能」だから「前例はない」のだが、ともかく「銃殺」ということばを聞いて、兵士一同はまた倒れてしまう。そこで、曹長が意を決して、自分一人が責任を被って銃殺されるから、将軍の勲章とエポレットを盗み、一同で食べようと申し出る。すると、特務曹長も自分もいっしょにやって、十の生命の代わりに二人の命を投げ出そうと言い、兵士たちに号令をかけて集合させる。そして勲章やエポレットを「盗む」のはよくないから「もっと正々堂々とやらなくちゃいけない。」と言うのだが、これもなんだかおかしい。「正々堂々と」大将を騙すのだから。

 特務曹長は勲章を拝見といって、バナナン大将に勲章十個とエポレット二個を外させ、自分を含めた兵士一同で食べてしまう。身につけた勲章が全部食べられてしまうまでバナナン大将が気がつかないのは不自然なようだが、舞台上でどんな演出がなされたのだろうか。

 バナナン大将が身に着けていた勲章とその由来は次の通りである。
1・獅子奮迅章。バナナン大将はロンテンブナール勲章ともいっている。インド戦争で受領。ザラメ入り。
2・ファンテプラーク章。シナのニコチン戦役でもらう。
3・チベット戦争でもらった勲章。チベット馬のしるしがついている。
4・普仏戦争の勲章。ナポレオン・ボナパルトの首のしるしつき。六十銭で買ったもの。
5・アメリカの勲章。ニュウヨウクのメリケン粉株式会社から贈られたもの。
6・シナの大将と豚五匹でとりかえたもの。ハムサンドウィッチ(そのもの?)
7・むすこからとりかえした勲章(?)立派なものらしい。
8・モナコ王国でばくちの番をしたときもらった勲章。
9・手製の勲章。
10・アフガニスタンでマラソン競争をして獲得したもの。

 以上、ユーラシア大陸から太平洋をはさんでアメリカまで、バナナン大将は世界中の戦場を渡り歩いて収集したようである。戦闘行為に参加して手にしたものではない勲章も含まれているところがおかしいが、そうやって獲得した勲章はすべて特務曹長の手から兵士たちの胃袋におさまってしまう。さらに

11・イタリアごろつき組合から贈られたジゴマと書かれた勲章は曹長が嚥下し
12・ベルギ戦役、マイナス十五里進行の際、スレジンゲトンの街道で拾った勲章。少し馬の糞がついているもの、とあるのは特務曹長みずから嚥下する。

 最後に、特務曹長はバナナン大将が両肩につけたバナナのエポレットも外させ、十二人の兵士全員で食べてしまう。勲章も肩章もすべて食べられて、はじめてバナナン大将は自分が無一物になったことに気がついて動揺する。一方兵士たちは飢餓から回復すると、罪の意識に苛まれる。兵士たちは「将軍と国家に」おわびの方法がないのでみんなで死のう、という。それにたいして、曹長と特務曹長は、勲章を食べることを発案した自分たちが悪いので、二人が責任を取って死ぬが、他の兵士たちは将軍の指示に従うように言って、号令をかける。

 そして、特務曹長がピストルを出し、
 「飢餓陣営のたそがれの中
 犯せる罪はいと深し
 ああ夜のそらの青き火もて
 われらが罪をきよめたまえ。」
と祈ると、曹長も
 「マルトン原のかなしみのなか
 ひかりはつちにうずもれぬ
 ああみめぐみのあめをくだし
 われらがつみをゆるしたまえ。」
祈り、さらに兵士一同合唱で
 「ああみめぐみの雨をくだし
 われらがつみをゆるしたまえ。」
と祈るのである。

 この祈りの詞は文字で読んでも、「コミックオペレット」には重すぎる印象だが、実際に劇中で歌われた曲を採譜して演奏したものを聞くと、讃美歌あるいは聖歌の響きがある。荘重で、暗く、あきらかにキリスト教の調べなのが異様である。

 特務曹長がピストルを擬して、まさに自殺しようとする。すると、これまで瞑目していたバナナン大将は即座に立ち上がり、特務曹長のピストルを奪う。そして、言う。

 「もうわかった。お前たちの心底は見届けた。お前たちの誠心に比べては俺の勲章などは実になんでもないんじゃ。
 おお神はほめられよ。実におん眼からみそなわすならば、勲章やエポレットなどは瓦礫にも等しいじゃ。」

 餓えと疲労で倒れる寸前だった兵士たちを「泥人形」と罵ったバナナン大将の突然の変化にとまどいを覚えざるをえないが、とまどうのはそれだけではない。「国家と将軍」に死んでわびようとしている兵士たちと、じぶんたち二人の死をもって償いをしようとする特務曹長と曹長に対して、
 「お前たちの誠心に比べてはおれの勲章などは実になんでもないんじゃ。」というバナナン大将の言葉は軍と国家の規範を完全に否定するものである。さらにバナナン大将は
 「おお神はほめられよ。実におん眼からみそなわすならば、勲章やエポレットなどは瓦礫にも等しいじゃ。」
と「神」という概念を至高のものとする価値観を堂々と開陳する。この論理あるいは倫理が県立学校の開校式で上演される演劇で語られるのも異様というべきである。

 兵士たちの祈りのことばにある「つみ」と「きよめ」「ゆるし」にも微妙な違和感を覚える。「きよめ」は「けがれ」と対で使われることが多いが、「つみ」を「きよめ」るのはキリスト教の概念であり、「ゆるし」もまたそうである。

 だから、バナナン大将が「神のみ力を受けて」発明した「生産体操」という果樹製枝法を兵士たちに体現させて、最後の「棚仕立て」でつくった棚の下で「琥珀の実」と「新鮮なエステルにみちた甘いつめたい汁でいっぱい」の果物を収穫する行為は、イエスが五つのパンと二つの小魚で五千人の群衆を満腹にさせたという奇跡と同じ文脈で考えなければならないだろう。

 最後の合唱は
 「・・・・・・・・・・・・
  あわれ二人の つわものは 
  責めに死なんと したりしに
  このとき雲のかなたより
  神ははるかにみそなわし
  くだしたまえる みめぐみは
  新式生産体操ぞ。
  ・・・・・・・・・・・・・
  ひかりのごとく くだりこし
  天の果実を いかにせん
  みさかえはあれ かがやきの
  あめとしめりの くろつちに
  みさかえはあれ かがやきの
  あめとしめりの くろつちに」
と結ばれるが、これも讃美歌98番
 「あめにはさかえみ神にあれや。つちにはやすき人にあれやと」にみるように「あめ」「みさかえ」「つち」と多くの讃美歌と共通の語がつかわれている。先の兵士の祈りの中にある「みめぐみ」もまた讃美歌539番
 「あめつちこぞりて かしこみたたえよ
  みめぐみあふるる 父みこみたまを。」
とキリスト教に特徴的ないいまわしである。

蛇足だが、特務曹長以下兵士が「十二人」というのも象徴的である。実は、特務曹長がバナナン大将に「かの巨大なるバナナン軍団のただ十六人の生存者・・・」というくだりがあるが、兵士十二人とバナナン大将を合わせた人数はどう計算しても十三人で数字があわないのだ。舞台に登場しない三人はどこにいるのだろう。兵士の数を十二人としたのに意味があるのはわかるが、なぜ敢えて、生存者と不一致の人数にしたのかが謎である。

 賢治のここまでのキリスト教への接近は何を意味するのだろう。

 結局何も解決できないで時間ばかり経ってしまいました。時代と賢治を理解する原点に戻ってきたという感じです。暑さと農作業にかまけて、なかなか先にすすめませんが、なんとか時間をつくって読みつづけたいと思っています。未整理な文章を最後まで読んでくださってありがとうございました。

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