2022年12月16日金曜日

宮澤賢治『風の又三郎』__高田三郎はいかにして鬼になったか

  三郎と子どもたちが葡萄と栗を交換したエピソードの次に語られるのは、少し複雑で難解な出来事である。

 「次の日は霧がじめじめ降って学校のうしろの山もぼんやりしか見えませんでした。ところが今日も二時間目からだんだん晴れてまもなく空はまっ青になり、日はかんかん照って、お午になって一、二年が下がってしまうとまるで夏のように暑くなってしまいました。」

と書き出されるが、「次の日」が葡萄蔓とりの翌日のことなのか、よくわからない。「今日も二時間目からだんだん晴れて」とあるので、たぶん連続した日の出来事なのだろう。真夏のような暑さで、授業が終わると、子どもたちは川下に泳ぎに行く。「又三郎、水泳ぎに行かないが。」と嘉助に誘われ、三郎もついて行く。昨日の葡萄蔓とりには「三郎も行かないが。」と誘った嘉助が、今日は「又三郎」と呼びかけていることを覚えておきたい。

 勢いこんで水に飛び込み、がむしゃらに泳ぎ始めた子どもたちを三郎がわらい、その三郎が、今度は水にもぐって石をとろうとして息が続かず、途中で浮かびあがってきたのを見た子どもたちがわらう、という場面の後、発破を仕掛ける大人たちが登場する。庄助という抗夫が発破をしかけ、ほかの大人たちは網を持ったりして、水に入ってかまえる。だが、彼らが狙った獲物はかからず、流れてきた雑魚を取った子どもたちが大よろこびする。

 発破の音を聞きつけて、また別の大人たちが五六人、そのあとにはだか馬に乗った者もやってくる。そのとき、「さっぱりいないな。」とつぶやく庄助のそばへ三郎が行って、「魚返すよ。」といって二匹の鮒を河原に置く。「きたいなやづだな」といぶかる庄助と魚を置いて帰ってくる三郎を見て、みんながわらう。収獲がないので、大人たちが上流に去ると、耕助が泳いで行って三郎の置いてきた魚を持ってくる。みんなはそこでまたわらう。

 「発破かけだら、雑魚撒かせ。」と嘉助が雄たけびをあげる。子どもたちは雑魚だろうが何だろうが、魚がとれたことが無条件にうれしいのだ。食べ物が手に入ったのだから。だが、三郎にとっては、手放しでよろこべることではなかった。発破をかけて魚を取ること自体が違法行為であり、そうやって手に入れた魚は発破を仕掛けた者の所有物である、と考えたのかもしれない。とりあえず、魚を返すことで違法行為と関わりを断っておきたかった。泥棒といわれたくない、という自尊心もあったかもしれない。

 雑魚を返しに行く三郎の遵法意識が庄助に通用せず、いぶかられたのを見て笑った子どもたちにあるのは「食べ物が手に入ればうれしい」という徹底した現実感覚であり、論理である。三郎が返しに行った魚を取り返しに行くのが、葡萄蔓とりの耕助である。くちびるを紫いろにして葡萄をためこんでいた耕助がまたしても魚を取り返しに行く。子どもたちにとって「食」は無前提に優先されるが、三郎はそうではない。行動の当為が問題なのだ。子どもたちと三郎の隔たりをうみだすものは、飢えとの距離感だろう。

 だが、この時点では、いくぶんかの齟齬はあるものの、三郎が子どもたちから疎外されていたというわけではない。むしろ、一郎の指揮下子どもたちは、見知らぬ大人の侵入を警戒して、三郎を守ろうとするのである。

 発破騒ぎのあと、「一人の変に鼻のとがった、洋服を着てわらじをはいた人」が登場する。ステッキのようなもので生け洲をかきまわしている。佐太郎が「あいづ専売局だぞ。」と言い、嘉助も「又三郎、うなのとった煙草の葉めっけたんで、うな、連れでぐさ来たぞ。」と言う。「なんだい。こわくないや。」と三郎は言うが、「みんな、又三郎のごと、囲んでろ。」と一郎の指示で、三郎はさいかちの木の枝のなかに囲まれる。

 ところがその男は三郎を捕まえる気配もなく、川の中を行ったり来たりしている。子どもたちの緊張はとけたが、男のしていることの意味がわからない。それで、一郎が提案して、みんなで男に叫びかける。「あんまり川を濁すなよ、いつでも先生言うでないか。」このシュプレヒコールは三度くり返され、男は「この水飲むのか。」「川を歩いてわるいのか。」と子どもたちに問いかけるが、最後まで子どもたちは「あんまり川を濁すなよ、いつでも先生言うでないか。」とシュプレヒコールで返すだけだった。

 四度目のシュプレヒコールの後、男が去ると、子どもたちは何となく「その男も三郎も気の毒なようなおかしながらんとした気持ちになりながら」木からおりて、魚を手に家路についたのだった。

 子どもたちの生活世界のなかに、大人が侵入してくる。発破をしかけた一味と、それを見にきた集団。それから、目的不明で現れた「鼻のとがった人」。それらが、三郎と子どもたちの関係に微妙な波紋を投げかける。

 翌日、佐太郎が、発破の代わりに毒もみに使う山椒の粉を学校に持ってくる。山椒の粉は、それを持っているだけで捕まるというしろものである。この日の朝の天候は書かれていないが、「その日も十時ごろからやっぱりきのうのように暑くなりました。」とあるので、三日連続で夏のような天気が続いたことになる。授業が終わるのも待ち遠しく、子どもたちはさいかちの木の淵に急ぐ。佐太郎は耕助などみんなに囲まれて、三郎は嘉助とともに行ったのである。

 淵の岸に立って、佐太郎が一郎の顔を見ながら、差配する。佐太郎は、山椒の粉が入った笊を持って行って、上流の瀬で洗う。子どもたちはしいんとして、水を見つめている。三郎は水を見ないで、空を飛ぶ黒い鳥を見ている。一郎は河原に座って、石をたたいている。

 だが、いつまでたっても魚は浮いて来なかった。「さっぱり魚、浮かばないな。」と耕助がさけび、ぺ吉がまた「魚さっぱり浮かばないな。」と言うと、みんながやがやと言い出して、水に飛び込んでしまう。きまり悪そうにしゃがんでしばらく水をみていた佐太郎は、やがて立ち上がって「鬼っこしないか。」と言う。そうして、この「鬼っこ」が修羅場になる。

 つかまったりつかまえられたり、何遍も「鬼っこ」をするうちに、しまいに三郎一人が鬼になる。三郎が吉郎をつかまえて、二人でほかの子たちを追い込もうとするが、吉郎がへまをしたので、みんな上流の「根っこ」とよばれる安全地帯に上がってしまう。嘉助まで「又三郎、来」と、口を大きくあけて三郎をばかにする。さっきからおこっていた三郎はここで本気になって泳ぎ出す。これまで三郎をエスコートしてきた嘉助に裏切られたと思ったのだ。

 そして、みんなが集まっている「根っこ」の土に水をかけ始める。「根っこ」は粘土の土なので、だんだんすべって来て、集まっていた子どもたちは一度にすべって落ちてくる。三郎はそれをかたっぱしからつかまえる。一郎もつかまる。嘉助一人が逃げたが、三郎はすぐ追いついて、つかまえただけでなく、腕をつかんで四、五へん引っぱりまわす。水を飲んでむせた嘉助は「おいらもうやめた。こんな鬼っこもうしない。」と言う。ちいさな子どもたちは砂利の上に上がってしまい、三郎ひとりさいかちの木の下にたつ。三郎は一人ぼっちになってしまったのだ。

 三郎が一人鬼になってしまったのは偶然である。「鬼っこ」を始めたのも、毒もみ漁が上手くいかなかった佐太郎の思い付きだ。だが、鬼になった三郎が子どもたちを一網打尽にしたのは偶然ではない。彼がなみはずれた体力と知力をもっていたからである。そもそも、上の野原で逃げた馬を追って、馬といっしょに現れたのは三郎だった。

 その能力が怒りと結びついたとき、「鬼っこ」は修羅場と化した。天気も一変する。空は黒い雲に覆われ、あたりは暗くなり、雷が鳴りだす。轟音とともに夕立がやって来て、風まで吹きだす。

 さすがに三郎もこわくなったようで、さいかちの木の下から水の中に入って、みんなのほうへ泳ぎだす。そこへだれともなく、叫んだものがある。

 「雨はざっこざっこ雨三郎 
 風はどっこどっこ又三郎。」

すると、みんなも声をそろえて叫ぶのだ。

 「雨はざっこざっこ雨三郎、
 風はどっこどっこ風三郎。」

 前日鼻のとがった人を追い払ったシュプレヒコールがここでも繰り返される。さらに、動揺した三郎が「いま叫んだのはおまえらだちかい。」ときくと、みんないっしょに

 「そでない。そでない。」

と叫ぶのだ。その上、ぺ吉がまた出て来て

 「そでない。」

と言う。

 三郎は、いつものようにくちびるをかんで、「なんだい。」と言うが、からだはがくがくふるえている。

 「そしてみんなは、雨のはれ間を待って、めいめいのうちへ帰ったのです。」と結ばれて、高田三郎の物語は終わる。

 高田三郎の物語はここで終わります。一郎と嘉助、そして村の子どもたちについては、もう少し考えてみたいことがあるのですが、長くなるので、また次回にしたいと思います。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

 

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