昨年から島崎藤村の『夜明け前』を読んでいるが、遅々として進まない。あまりにも重く、大きな課題に向き合って、最初から腰が引けてしまっている。それで、つい、精巧に組み合わされたジグゾーパズルを解く感覚で、金曜ロードショー『千と千尋の神隠し』に寄り道してしまった。ところが、これもかなりの難問なのである。
映画の導入がまず、不思議、というか不気味である。「ちひろ 元気でね また会おうね 理砂」という文字と理砂らしき女の子のイラスト入りのカードと、(たぶん)スイトピーの花束が画面いっぱいに映され、花束の向こうに子どもの足(正確にはむきだしの太ももと靴をはいた足)がちらっと見える。その後画面が切り替わると、車の後部座席に寝転がって、足を段ボールの箱の上にのせている女の子がいる。つまらなそうな顔である。一瞬、花束を抱いた子がお棺の中にいるのかと思ってしまった。
「ちひろ、ちひろ、もうすぐだよ」という男性の声「やっぱり田舎ね。買い物は隣町にいくしかなさそうね」という女性の声「住んで都にするしかないさ」という男性の声が続く。一家は引っ越しの途中で、身の回りの荷物を載せて乗用車で引っ越し先に向かっているらしい。もうすぐ引っ越し先の新しい家に着くようだが、女の子は転校先の学校を示されてもアカンベエをして「前のほうがいいもん」とふて腐れた様子。そして、花束の花が萎れってっちゃったと母親に訴えるのだが「水切りすれば大丈夫」と取り合ってもらえない。「初めてもらった花束がお別れの花束なんて悲しい」という女の子に母親は「あら、この前のお誕生日に薔薇の花をもらったじゃない」とこたえる。それに対して女の子は「一本ね。一本じゃ花束っていえないわ」と返す。なかなかのものである。
この後母親が「カードが落ちたわ。窓を開けるわよ。もう、しゃんとしてちょうだい。今日は忙しいんだから」と女の子に言って、(なぜか)窓を開ける。半開きになった窓から外の景色が流れる。さらに三叉路を右に折れていく乗用車の後部が映される。上に掲げられた標識には「国道21号 とちの木 中岡」とあって、車は右側「とちの木」方面に折れ、つづら折りのようになった坂道を登っていく。坂の上にひな壇状に造成された新興住宅街が目的地のようである。そこそこ大きな家が立ち並ぶ住宅街が画面いっぱいに写され、「千と千尋の神隠し」のタイトルがオーヴァーラップする。ここまで1分39秒である。そしてここまでに、この映画の謎が盛りだくさんにつめこまれている。
何が謎で、その謎をどう解いたらいいかについては、おいおい触れていくことにして、まずとりあげたいのは、この車は「四輪」のアウディで、当然エアコンもついているはずなのに、どうして窓を開けるのだろうか。季節は、暑くもなく寒くもなさそうで、女の子とその両親の服装も半袖のTシャツの軽装である。女の子がスイトピーの花束を握りしめているところを見ると、たぶん五月だろう。連休を利用しての引っ越しだと思われる。
タイトルが流れた後、画面は切り替わって、杉の巨木が映される。根本に置かれている鳥居に比べると、とてつもなく大きな木であるが、幹から出た枝はほとんど折れている。鳥居の周りに杉の木を囲むようにしてたくさんの石が散らばっている。どうやら道を間違えたようである。「あのうちみたいの何?」と聞く女の子に母親が「石の祠。神さまのおうちよ」と即答して、車はさらに舗装されていない道を進んで行く。
落雷に直撃されたような杉の巨木と片寄せられて見捨てられた鳥居、石の祠、これらがもたらすメッセージは誰でも受け止められるもので、私がわざわざ解説するまでもないだろう。その先のトンネルの前に立つ蛙の石像も同様で、賽の神である。前と後ろの両面を向いているのが奇妙といえば奇妙だが。
母親の制止を振り切って、石畳の道を猛烈なスピードで車は進み、蛙の石像に遮られてトンネルの前で止まる。見上げると、暗い赤っぽい色のトンネルの上に屋根があって、「湯屋」と描かれた古い看板が掲げられている。「湯」と「屋」の間に丸で囲んだ「油」という文字がはさまっている。「門みたいだねえ」といいながら父親は興味を覚えたらしく、トンネルの方に進んでいく。母親は戻ろう、と制止するが、女の子はすぐに車を降りて父親の傍に行く。
「なんだ、モルタル製か。けっこう新しい建物だよ」と父親は言って、薄暗い奥に出口らしきものを見つけて、中に入ろうとするが、足元の枯草がトンネルの中に吸い込まれて行くのを見て女の子は怖くなる。「戻ろうよ、お父さん」と車のところに戻る女の子を置き去りにして、母親までも「ちひろは車の中で待ってなさい」とトンネルの中に入って行く。置き去りにされた女の子は、何ともしれぬ「ほろほろ」と鳴く鳥の声のような音におびえて、両親の後を追い、トンネルの中にはいって行く。
女の子は「そんなにくっつかないでよ。歩きにくいわ」といわれながらも、母親の腕にしがみついて進んでいく。出口近くいくらか光の指し込む空間が見えてくる。そこにはたくさんの石柱があって、上のほうに小さなランプが石柱を囲むように吊るされている。いくつもの(たぶん)木製のベンチが置かれ、小さな円いステンドグラスのような窓からかすかな光が差し込んでいる。隅の方に壊れた家具のようなものが乱雑に積み重ねられている。修道院のような雰囲気もするが、なんだか、死を待つ人のための部屋、といった趣がある。あるいは、収容所に送られる人が一時そのときを待つための部屋。
トンネルを進んでその部屋に入ると、前より明るくなって、電車の音が聞こえてくる。小さな円いステンドグラスと蝋燭の燭台が映される。「案外駅が近いかもしれないね」という母親に「行こう。すぐわかるさ」と父親も応じて、三人はトンネルを脱け出る。
トンネルを脱けると、見わたす限り広い草原で、ここにも奇妙な形の石像があり、ところどころに朽ちかけた家も散在している。父親が「やっぱり、間違いないな。テーマパークの残骸だよ、これ」と言って上をみあげると、トンネルの上は赤っぽい塗料が剥げかけた倉のような建物である。屋根の上に時計塔が乗っている。建物の側面に丸で囲んで「湯」と描かれ、正面にまた別の時計が描かれていて、時計塔の時計と異なる時刻を示している。その下には「復楽」と書かれた看板がかかっている。
何とも奇妙なのが、時計の文字盤である。上の時計塔のそれは、直角の二面についていて、そのどちらも一見「10時40分」を指しているようだが、「3」と「9」の位置が逆さまで、しかも数字の並びがくるっている。下の時計は文字盤が数字でなく、漢字で書かれているが、かろうじて読めるのは「6」の位置にある「参」だけである。
九十年代にたくさん計画されて、その後つぶれてしまったテーマパークの残骸が残っているんだ、と言って、どんどん進んで行く父親とその後を追う母親。女の子ひとり、「もう帰ろうよ!」と叫ぶが両親ともふりむかない。残された女の子の頭の上の方から風が吹きつけて、木の葉が舞う。風は時計のほうから吹いてくるようだ。怖くなった女の子は、しかたなく両親の後を追う。
ここまで6分40秒である。この後、賽の河原だか三途の川を渡って、石段を上り、無人の食べ物屋で山盛りの料理を貪り、両親が豚になるくだりとそれ以降は、多くのジブリファンがさまざまな考察を試みているので、とりあえず今回はここまでにしたい。この作品は、じつはここまでが謎だらけで、しかも、ほとんどの人が謎に気づかないようである。私にとって、最大の謎はこの女の子_「千尋=ちひろ」と呼ばれる_が何ものなのか、ということである。
誰でも気づくのは、両親、とくに母親が千尋にたいして冷淡であることだ。トンネルの暗がりを歩くときも「くっつかないで」と言い、大きな石ころだらけの川を渡るときは、「早くしなさい」というばかりで、手を貸そうともしない。よく見ると、車から降りた千尋は極端に手足が細くて、着ている服はだぶだぶである。どう見ても、愛されている子の風体ではない。両親と千尋の関係性は、日常現実の世界で理解しようとしても、無理なような気がする。それは「神隠し」_隠された神の世界に入り込んで解き明かすしかないのではないか。私は一つの仮説をもっているが、長くなるので、今回はここまでにしたい。次回はまず、「おぎのちひろ」という名前を手掛かりに考えてみたい。千尋という存在の深層に隠された神は何か。
最後に蛇足をつけ加えると、この映画の舞台は、双子の姉妹である「油屋」と「銭屋」が双頭の鷲のように支配する異空間である。銭屋が所有する契約印を油屋が奪おうとして失敗する。最も大きなプロットはこれである。その契約は、誰と誰の間で結ばれるものか、という点が、いまの私には疑問なのだけれど。
いろいろ調べていて時間ばかり経ってしまいました。自分が神話や歴史をあまりにも知らないことに気づいて愕然としています。なので、どこまで読み解けるかわかりませんが、もう少し考察を進めてみたいと思います。今日も最後まで読んでくださってありがとうございました。
0 件のコメント:
コメントを投稿