2019年8月20日火曜日

宮沢賢治『ペンネンネン・ネネムの伝記』__ばけもの社会のMMT

 『グスコーブドリの伝記』について調べていくうちに、『ペンネンネンネン・ネネムの伝記』という作品に出会った。『ペンネンネンネン・ネネムの伝記』と呼ばれる草稿に手を加えて完成したものが『グスコーブドリの伝記』であるとされている。たしかに、この二つの作品は、冷害と飢餓のため両親が自死し、妹も人さらいにさらわれて、一人ぼっちになったた少年が自立して世の中に出ていくという成長小説である。

 だが、作品として完成し、どこかとりすました感のある『グスコーブドリの伝記』とくらべると、『ペンネンネンネン・ネネムの伝記』は粗削りだが、とにかくおもしろいのである。主人公のネネムが、偶然に、奇術の一座の中に人さらいに連れ去られた妹のネリを見つける場面など、手に汗握る面白さである。豪華絢爛、奇想天外な奇術(魔術?)の舞台、それを固唾を飲んでみつめる観客の緊張と興奮、賢治の天才的な想像力がほとばしり、躍動感あふれる描写に圧倒される。

 そしてもうひとつ、私が関心を惹かれたのは、この作品が「ばけもの社会の経済学」とでもいうような論理を呈示していることである。いやそれは人間社会の経済学かもしれないが。

 一人ぼっちになったネネムは、住んでいた家ごと森を買い占めた男に昆布取りの仕事をさせられる。栗の木にはしごを掛けててっぺんまで登り、空中に網を投げて昆布を捕るのである。? こんなことで昆布が取れるのかと不思議だが、男は一日一ドルの手間をくれるという。だが、男がネネムに差し入れるパンの値段が一ドルで、一日十斤以上昆布を取ったらあとは十セントで買ってくれるというのだ。一日十斤に足りないときはネネムの損で、借金が残る。じつにあこぎなシステムだが、人間社会でも同じように、いやもっとひどいことに、最初から借金を背負って働かなければならない人たちが多かったのだろう。

 ネネムは栗の木のてっぺんに立ちっ放しで十年で借金を返し、貯めた三百ドルをふところに、栗の木から降りてばけもの世界のまちに向かって歩き出したのである。三百ドルは賢治の時代にいかほどの価値があったのか。かなりの大金だったのではないか。そしてネネムは、そのお金で森の出口の雑貨屋でまっ黒な上着とズボンを買って身をかため、学問をして書記になろうと考えたのである。「もう投げるようなたぐるようなことは考えただけでも命が縮まる。」じっさい、肉体労働者が確実に命を縮めて働くのは賢治の時代の日本だけではない。

 立派な姿になったネネムは嬉しくて一気に三十ノットばかり走り、出会った黄色な幽霊にまちまでの距離をたずねる。すると黄色な幽霊はネネムをばけものりんごの木の下まで連れて行って、木の根とネネムの足さきをそろえてから、市まで六ノット六チェーンだという。不思議なことをするものだ。もう一つ不思議なのは、ノットは船の速度の単位だが、距離の単位としても使うのだろうか。

 それからネネムは市の刑事の尋問にあったり、失踪した息子の行方を探している母親に息子と間違えられたりしながら、無事にばけもの世界の首府の市に着く。ここでネネムは当代一の化学者フゥフィーボー先生の教室に紛れ込む。フゥフィーボー先生は「せの高さ百尺あまり」のばけもので、何だかよくわからない講義の終わりにテーブルの上に飛びあがって、「げにも、かの天にありて濛々たる星雲、地にありてはあいまいたるばけもの律、これはこれ宇宙を支配す。」と大見えを切る、と書かれている。あきらかにドイツの哲学者イマヌエル・カントのパロディである。動く哲学大全みたいなカントの道徳律を空飛ぶばけもの博士に語らせているのだ。

 ネネムはめでたくフィフィーボー先生の試験に一等で合格して「世界裁判長」という職に抜擢される。書記よりはるかに偉そうな地位につくことができたのである。ネネムに尋問した刑事は、ネネムが森の中でばけものパンばかり喰ったので書記になりたがっていると指摘したのだが、「ばけものパン」と書記に関係があるのだろうか。やわらかいパンばかり食べていると、過酷な肉体労働などいやになるということなのだろうか。

 世界裁判長になったネネムは、人間界に出現したばけものの裁判をした後、中生代の瑪瑙木(これはいきものかしらん)の「世界長」に挨拶に出向く。そしてその後まちに出る。ネネムが町で出会ったのは「フクジロ印」という商標のマッチを売り歩くばけものの一行だった。一行はフクジロという皺くちゃで年寄のような子供のような怖いおばけに一つ一銭のマッチを十円で売らせているのだった。

 ネネムがフクジロを捕まえると、フクジロはいくらマッチを売ってもお金はみんな親方に巻き上げられてしまい、ご飯もろくにたべさせてもらえないという。そこでフクジロにマッチを渡している親方を捕まえると、その親方もやっと喰うだけしか貰えず、後ろにいるばけものにみんな取られるという。ネネムは一行三十人あまりを全員捕まえて調べ上げる。

 調べてわかったことは列の一番おしまいの緑色のハイカラなばけものを除いて、前に並ぶばけものはみなその前のばけものに借金があり、それぞれ日歩を払っているということだった。緑色のばけものは百二十年前にその前に並ぶまっ赤なハイカラなばけものに九円貸して、今は元金が五千円になっているという。まっ赤なばけものは、元金は手付かずで、日歩三十円をばけものは、緑色のばけものに払っている。同様にばけものたちは前のものにお金を貸して、利息を受け取り、また利息を払っていて、最後のものは三百年以上も前に借りたお金の利息千三百三十円三十銭を払っているというのだ。これはまさしく金融資本主義の原型ではないか。

 千三百三十円三十銭という金額がどのくらいのものか見当もつかないのだが、マッチの値段がふつうは一銭というので、その十三万三千三十倍、ということは千万円くらいだろうか。もう少し少ないかもしれないが、それにしても一日に入る現金としては大変な額である。ばけもの一行がやっていることは、フクジロというばけものにただ働きをさせて、一銭のマッチを十円で売り、一日何もしないで暮らすことだった。

 もちろん、脅して無理やり買わせるのだから悪いことである。悪いことだが、マッチを買う方は、脅されたとはいえ、自由意志で買うのだから、これは商取引といえないこともない。だいたいものの値段が需要と供給の均衡で決まるなど神話以外なにものでもないだろう。脅されるか、おだてられるか、ともかく買う側に価格決定権などない。一銭のマッチが十円で売れれば、GDPは膨らむのである。

 世界裁判長たるネネムはこの事実を見逃すわけにはいかない。みんな悪いがみんなを罪にするのはかわいそうだと言って、ネネムは一行を解散させてしまう。あわれなフクジロは張り子の虎をつくる工場に送られ、ほかのばけものはちりぢりに逃げてしまった。見物人は「えらい裁判長だ。」と喝さいするのだが、膨らんでいたGDPはしぼんでしまう。それだけでなく借金がなくなると、元金も永遠にもどらなくなり、毎日入っていた利息も消えてしまうのである。これでよかったのだろうか。もちろんこれは、私の疑問であって、賢治にこの問題意識があったかどうかわからないのだが。

 この後ネネムは名声いやがうえにも高まり、幼いころさらわれていった妹とも再会し、これ以上を望むことができないほどの暮らしをする。だが、自己実現の極みともいうべき境地に達したネネムは、火山の爆発に興奮狂喜して、人間界に出現してしまう。そして、その罪によりいっさいを失うのである。賢治の自己消失への願望、それは自己昇華あるいは自己犠牲と呼ばれたりするものだが、そのことについては『グスコーブドリの伝記』との対照で考えてみたい。文章にまとめるのにはもう少し時間がほしいと思っている。

 『ペンネンネンネン・ネネムの伝記』と『グスコーブドリの伝記』は発端も結末もよくにているのですが、作品のベクトルは正反対のような気がします。Gay Twentyといわれた1920年代から大不況の30年代への時代の変遷がそのことと何ほどの関係があるのかについても考えてみたいのですが、これも課題としてずっとかかえていくしかないようです。この作品のおもしろさを伝えることができなくて残念です。今日も未整理な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

   

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