2019年3月20日水曜日

宮沢賢治『ポラーノの広場』その2__和解と祈り__宮沢賢治のキリスト教

 この作品は、おそらく作者の最晩年に現存のかたちにまとめ上げられたものと思われる。これは、作者の実生活での葛藤、相克を経て、最後に至り着いたしずかな「祈り」であり、現実との「和解」である。そしてその「祈り」は、作者が熱心な信徒だったという法華経の世界よりもキリスト教のそれに近いように思われる。近いということは必ずしも一致しているということではないのだが。

 宮沢賢治とキリスト教については『銀河鉄道の夜』が取り上げられることが多い。讃美歌が流れ、光が散りばめられた十字架と「神々しい白いきものの人」が登場するこの作品はキリスト教のイメージが色濃く漂っている。作中主人公のジョバンハニが「たったひとりのほんとうの神さま」について、難破した船に乗っていた女の子やその家庭教師の青年と議論する。天上に行くために次ぎの駅で下りるという女の子にジョバンニは言う。

 「天上なんか行かなくたっていいじゃないか。ぼくたちここで天上よりももっといいとこをこさえなきゃぁいけないって僕の先生が言ったよ。」
 「だっておっかさんも行ってらっしゃるし、それに神さまがおっしゃるんだわ。」
 「そんな神さまうその神さまだい。」
 「あなたの神さまうその神さまよ。」
 「そうじゃないよ。」
 「あなたの神さまってどんな神さまですか。」
青年は笑いながら言いました。
 「ぼくほんとうはよく知りません。けれどもそんなんでなしに、ほんとうのたった一人の神さまです。
 「ほんとうの神さまはもちろんたった一人です。」
 「ああ、そんなんでなしに、たったひとりのほんとうの神さまです。」
 「だからそうじゃありませんか。わたくしはあなたがたがいまにほんとうの神さまの前に、わたくしたちとお会いになることを祈ります」
青年はつつましく両手を組みました。

 この部分は『銀河鉄道の夜』の核心だろう。救命ボートに乗り込まずに、難破した船と運命をともにし、いま天上に向かう女の子と青年が信じる「神さま」と、ジョバンニの「たったひとりのほんとうの神さま」は違う神さまなのか。

 女の子と青年にとって、神さまは、最初から彼らの中にある。神さまの存在は自明の理なのだ。むしろ「始めに神ありき」といったほうがいいかもしれない。それに対してジョバンニの神さまは「ぼくほんとうはよく知りません。けれどそんなんでなしに、ほんとうのたった一人の神さまです。」という神さまなのである。それは「天上よりももっといいとこをこさえる」実践の旅の過程で「よく知らない。けれど」、きっと出会う神さまだろう。

 光り輝く十字架とその前にひざまずく女の子や青年たち、手をのばしてこっちに来る「ひとりの神々しい白いきものの人」を後にのこして汽車は過ぎて行く。ジョバンニの旅はサザンクロスで終わるわけにはいかなかったのだ。終末はもう近いのだが。

 さて、『ポラーノの広場』は主人公の前十七等官等官レオーノキューストが遁げた山羊を探す場面からはじまる。山羊が何の寓意であるかはひとまず置いて、レオーノキューストが、「教会の鐘」の音で目を覚ましたということ、山羊を探しに外に出たら「黒い着物に白いきれをかぶった百姓のおかみさんたち」に出会い、おかみさんたちが「教会へ行くところらしくバイブルも持っていた」という記述に注目したい。ここは明らかに、共同体の中心に教会がある場所なのだ。それにしても、「黒い着物に白いきれをかぶった」女たちの登場は異様である。

 遁げた山羊を連れて来てレオーノキューストに渡してくれたのは、ファゼーロという農夫の少年だった。レオーノキューストとファゼーロ、それから羊飼いのミーロという若者の三人は、つめ草の花を頼りに、歌と祭りがあるという伝説のポラーノの広場を探し始める。

 この作品の「つめくさ」は「小さな円いぼんぼりのような白いつめくさくさ」とあるので「白つめくさ」__クローバーのことらしい。いまはもう、ほとんど見かけなくなってしまったが、昔の農村はれんげの薄紅とクローバーの白で田起こし前の田んぼが覆われていた。夢のように美しい光景だった。蛇がいることがあったが、草むらの中で春の長い日が暮れるまでよく遊んでいた。だが、れんげもクローバーも観賞用ではなく、重要な土壌改良剤だった。とくにクローバーは、酸性土壌の改良剤としてアメリカから輸入したもので、賢治が「つめくさ」に托す思いは深かったのだろう。物語のいたるところで、つめ草は「あかしをともす」という象徴的な表現とともに姿をあらわす。

 探しあてたポラーノの広場では山猫博士の酒宴が開かれていた。ポラーノの広場は山猫博士のもので、県会議員である山猫博士は、そこで次の選挙のための酒宴を開いていたという。酒盛りの場で水をくれというレオーノキューストたちと、酔った山猫博士の間で諍いが起こり、ファゼーロと山猫博士は決闘することになる。本気なのか酔狂なのかよくわからない決闘は、山猫博士が一方的に降参して終わるが、勝ったファゼーロは親方の制裁を怖れる。テーモという親方は山猫博士の手下で、酒盛りに参加していたからである。

 この後、山猫博士とファゼーロは二人とも失踪してしまう。ちょっと不思議なのは、ここまでの出来事の時系列が混乱していることである。遁げた山羊を追ってレオーノキューストとファゼーロが出会った日が「五月の終わりの日曜日」で、それから十五日後にポラーノの広場」でファゼーロと山猫博士が決闘し、その「次の次の日」にキューストが警察から呼び出される。ところが警部はキューストに「おまえは(五月)二十七日の晩ファゼーロと連れだって村の園遊会にちん入したなあ」と言っており、キューストもそのことばを否定していないのだ。そして警察からの召喚状の日付は「一九二七年六月廿九日」となっている。

 キューストは必至にファゼーロを探すがどうしても見つからない。八月になって、キューストは「イーハトーヴォ海岸で海産鳥類の卵を採集」するために出張する。彼はモリーオ市の博物局の職員なのである。出張も終わりに近づいた時に、キューストは偶然に山猫博士を見つけ、ファゼーロの行方を尋ねるが、山猫博士も知らないという。彼は林の中に木材の乾溜会社を立てたが、薬品価格の変動で経営が行き詰まり、工場を密造酒の醸造に使っていた。そのことで部下に脅迫され、広場に株主が集まっていた。ファゼーロと決闘したあの晩はやけっぱちになっていたのだという。いまは零落して収入の道もない、という山猫博士に同情してキューストは彼のもとを去る。

 九月一日、出張から帰ってきたレオーノキューストの家にファゼーロが姿を現す。ファゼーロはあの晩どうしても家に入ることができなくて、ずっと離れたところまで歩いて行って座り込んでいたら、革の仲買人が車に乗せてたべものをくれた。それからファゼーロは革をなめしたり着色したりする技術を身につけてセンダードへ行った。八月十日にモリーオに帰ってきたファゼーロは、山猫博士が残した工場で村の人と共同で酢酸をつくっていたという。

 キューストとファゼーロはポラーノの広場のちょっと向こうにあるという工場に行く。そこでファゼーロやミーロは村の老人たちと酢酸をつくったり、革をなめしたり、ハムをこしらえるだけでなく、ここにむかしのほんとうのポラーノの広場、「そこへ夜行って歌えば、またそこで風を吸えばもう元気がついてあしたの仕事中からだいっぱい勢いがよくて面白いようなそういうポラーノの広場をぼくらはみんなでこさえよう。」と決意する。
ファゼーロが音頭をとって、「水を呑んで」新しいポラーノの広場の開場式が行われる。

 『ポラーノの広場』の物語はほぼここで終わっている。それから三年後、キューストは仕事の都合でモリーオ市を離れたが、ファゼーロたちの工場は立派な産業組合となり、みんなでつくったハムと皮類と酢酸とオートミールがひろく出回るようになった。最後はレオーノキューストが郵便で受けとった「ポラーノの広場の歌」が記され、作品も閉じられる。

 作品のあらすじを追うだけで、キリスト教とのかかわりについてはふれることがほとんどできなかったが、長くなるので、それについてはまた回を改めたい。キューストたちを導いて、読者ともにポラーノの広場にいざなうつめくさの花のモチーフを中心に書いてみたいと思う。

 書いては消し、書いては消し、いくら繰り返しても、まとまったものができないので、もう一度同じテーマでチャレンジしてみたいと思います。ひとえに私の能力と経験の不足です。未整理な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
 

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