2014年10月7日火曜日

大江健三郎『宙返り』___「如何に書いたか」でなく「何を書いたか」

 『懐かしい年への手紙』、『燃え上がる緑の木』と続いた「魂のこと」を扱う小説は、『宙返り』でおしまいになる。谷間の森を舞台に繰り広げられた宗教三部作はこれで完結する。それぞれの作品の主人公は、初代ギー兄さん、二代目ギー兄さん、「師匠(パトロン)」と変化し、語り手も「僕」から「サッチャン」、最後の『宙返り』では作者の分身であるかのような画家「木津」の視点で語られるが三人称の小説である。どの作品も「魂のことをあつかう人々」が主人公である。「魂のこと」そのものが真のテーマであるとは必ずしも思えないのだが。


 題名になっている「宙返り」という言葉もしくは行為は、作中でも触れられているように、一七世紀トルコに生まれ、メシアを自称したサバタ・ツヴィのイスラム教への改宗に由来すると思われる。ユダヤ人社会でいわゆる「偽メシア」と呼ばれる人物はツヴィ以外にも何人もいるようだが、その奇行、カリスマ性でツヴィは傑出した存在だった。ツヴィを「救い主」と証し自らを「預言者」と名告ったガザのナタンとの二人組は十七世紀の東アジア、ヨーロッパを熱狂と混乱の渦にまきこんだのである。「死か、さもなくばイスラム教への改宗か」とスルタンに迫られたツヴィはあっさりと改宗したが、『宙返り』に登場する『救い主」と「預言者」は、二人そろってTVカメラの前でそれまでの信仰の全否定のパフォーマンスを行った。そして、この信仰の全否定を「宙返り」という言葉で呼び、「救い主」を「師匠(パトロン)」預言者を「案内者(ガイド)」と言い換えたのはアメリカのメディアであった。

 「宙返り」から十年後師匠(パトロン)と案内者(ガイド)は再び活動を始める。物語は案内者(ガイド)の死を経て師匠(パトロン)が四国の谷間の森に移住して教会をつくり、そこで焼身自殺を遂げるまでが、主に木津の視点で語られる。この小説は「一年以内にしるしを示す、あるいはしるしとな」った男の歴史である。同時に歴史を書くことになった木津の恋人「よな」と呼ばれる育雄という青年の物語でもある。『宙返り』のもう一つの重要なテーマは旧約聖書の「ヨナ記」にみる神とヨナの対決である。大江健三郎は赦す神という「ヨナ記」の主題を、たぶん意図的にずらせて、神とヨナの対決あるいは神に抗議するヨナに焦点を合わせ、かつて神から「ヤレ」という声を聞き、再びその声を待ち望む育雄とパトロンの物語にしたのだ。

 大江の、とくに中期から後期の作品は、それらの複雑な組み立て方から、「如何に書かれているか」が評論の対象になることが多いように見受けられる。旧作の引用、再解釈、他作品のときには(英語以外の言語による原文での)引用など、文脈を直線的にたどるのが困難をきわめることがしばしばである。(「わかりにくくすること」そのものが大江の方法論の目的ではないかと思っている。)そのため、その複雑で入り組んだ文脈をときほぐすことがまず必要とされるからだろう。だが、作品論は「何を書いたか」をまず第一にあきらかにするべきである。少なくとも私のようなまったくの素人にはそのように思われる。

 『宙返り』は何が書かれているのか。前半は語り手木津と同性の恋人育雄、師匠(パトロン)、師匠(パトロン)のマネージャー役の踊り子(ダンサー)が登場し、偶然と必然のいりまじった出会いが描かれる。木津は師匠(パトロン)に惹かれていく育雄とともにいたい、という思いから、死んだ案内者(ガイド)の後を継いでパトロンの新しい案内者(ガイド)の役割をひきうける。師匠(パトロン)は木津を相手に、また亡くなった案内者(ガイド)の通夜集会で旧信者のグループと報道陣を前にして、説教する。その教義は、「一者」、「光の粒子」など、ギリシャ自然哲学とグノーシスと黙示録などの混在したもののようで、私は、そのように言われればそういう世界もあるのかもしれない、というしかない。師匠(パトロン)が一貫して説くのは、この世の終わりが近いということ、悔い改めが必要だということである。

 後半は舞台がお馴染み四国の谷間の森に移る。二代目ギー兄さんの死後、遺棄されたかたちとなっていた「燃え上がる緑の木」の教会の施設と農場を師匠(パトロン)が「新しい人」の教会を開くために譲り受ける。「新しい人」の教会には師匠(パトロン)を囲んで、「宙返り」後の十年間祈りと悔い改めの信仰を守り続けた「静かな女たち」のグループと、かつて案内者(ガイド)に育てられ、そして案内者(ガイド)を死に追いやった「急進派」の集団がおり、その周囲には教会に施設と農場を譲った二代目ギー兄さんの未亡人サッチャンとその(?)息子ギー、施設を管理してきたアサさん、「燃え上がる緑の木」の伝道の先兵となったがいまは寺に戻った「不識寺の松男さん」など前作の登場人物の姿が見える。なぜか資産の大半を「燃え上がる緑の木」の教会につぎ込んだ片腕の「亀井さん」は登場しないのだけれど。

 なかでも重要なのが、「童子の蛍」という少年グループを率いるギーである。少し乱暴ないい方をすれば、師匠(パトロン)の焼身自殺を成就させた実行犯は育雄と踊り子(ダンサー)であり、なくてはならぬ共犯者となったのがほかならぬギーである。そしてまた、テン窪の大檜を焼き尽くすことを提案し、その準備をしたのはギーの母(?)サッチャンであった。谷間の森を舞台とする宗教三部作は、テン窪大檜の焼失とともに幕を閉じたのである。

 この後大江健三郎は二度と宗教を作品中に登場させることはない。そして谷間の村は大江の分身と目される「長江古義人」に決して親和的でなく、むしろ敵意をあらわにする存在となっていく。


 能力不足と努力不足で整理のつかない文章になってしまいました。この魅力的な作品については、もう少し細部にこだわってみたいことがあるので、また続きを書きたいと思っています。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

0 件のコメント:

コメントを投稿