もう1ヶ月以上もしかしたら2ヶ月にわたって『燃え上がる緑の木』について考えている。何を書こうか?というより大江健三郎は「何を書いたのか?」ということが掴めないのだ。
こういう言い方も正確ではないかもしれない。作品を一通り読めば、ひとつの宗教的共同体の成立と崩壊の過程がドラマチックな演出のもとに十分に描かれている。問題は、その過程があまりにも定石通りで、作者の構想は完璧に作品化されているけれど、ひとつひとつのプロットあるいは登場人物が作者の構想を実現するための駒でしかないような感じがすることだ。作品の均衡を打ち破って動き出すようなプロットや魅力的な人物が見当たらないのである。
「救い主」に祀り上げられ、その役割をみずから引き受けながら、教団=宗教共同体から逃げ出す主人公「ギー兄さん」、その父親でイエーツを読んで死んでいく「総領事」、作者の分身K伯父さん、K伯父さんの旧友の遺児でマルチの才能をもち、教会音楽をリードするザッカリー、ギー兄さんの義母で熱心な信者となる「弓子さん」、総領事の友人で世界を駆け巡る音楽家でありながらギー兄さんの言葉を忠実に記録する「泉さん」、ギー兄さんを迫害するが後に回心して私財を投げうち教会を支える「亀井さん」、外部から教団を支援する地元ホテルの支配人「胡さん」(実は香港独立運動にかかわっている)、先のギー兄さんを裏切るかたちとなったが、今回は教団の公平なかじとりをする「徳田医師」、大学を停学して中途から教団に参加し、農場経営に携わって教団の主導権を握る「愛、育、英の伊能三兄弟」、最後までギー兄さんにつきしたがう「ター」、東京の若者向け雑誌編集者だった「ミツちゃん」、ギー兄さんを純粋に慕う知的障害の少年「ジン」、死の恐怖とその超克についてギー兄さんに問う脳腫瘍の少年「カジ」、ギー兄さんに心臓病を治してもらった「登君」とその母親、同じくーギー兄さんに眼を治してもらい、登君の母親とともに巡礼団を組織して旅立つ禅宗の僧侶「松男さん」・・・・様々な人物がその役割を担って登場する。いずれも個性的ではあるが、いかにもその通り、と妙に納得してしまう描かれ方なのだ。
魅力的な人物がいないことが作品をわかりにくしているわけでは、もちろんない。問題は、そうやって、いってみれば類型的な人物を配置して組み立てられた「物語」が『懐かしい年への手紙』を発展、完成させたように見えながら、じつは、大きな亀裂、断絶を生じていることである。断絶の第一は、「『懐かしい年への手紙』では存在の片鱗すらもみせなかった「オーバー」が物語の冒頭に「屋敷」の家長として登場することである。『懐かしい年への手紙』では、先のギー兄さんが、複雑な家庭の事情ながら、若くして莫大な資産を相続し、「屋敷」の家長となる。そして、父の「おてかけさん」だったセイサンと関係をもつのだが、その娘のオセッチャンを妻にする。であれば、先のギー兄さんが死ねば、「屋敷」の財産は、妻のオセッチャンが相続の権利をもつのが当然ではないか。しかも、作品の末尾でオセッチャンはギー兄さんの子を孕んでいるようにほのめかされている。ところが、『燃え上がる緑の木』に登場するオセッチャンは、オーバーのたんなる使用人のあつかいである。
オーバーの登場は、その人物が「新しいギー兄さん」を指名して、彼に土地の「魂」を承継させるという「神話」を語るためだったのだろう。先のギー兄さんの「魂のこと」が、ダンテの神曲をめぐる形而上学的かつ個人的なものだったのにたいして、オーバーが(新しい)ギー兄さんに教え込んだそれは、徹底して民俗学的な口誦による共同体全体のものだった。ギー兄さんは、というより『燃え上がる緑の木』という作品は「魂のこと」へ、まずは土着的、民俗学的なアプローチを試みたのである。
ギー兄さんが魂のことへ土着的なアプローチを試みたから、というより、オーバーの葬儀の際の偶然的な出来事が彼を特別な存在に祀り上げた。オーバーの遺体を焼く煙を潜りぬけた鷹が野鼠を掌に載せていたギー兄さんを襲撃したのである。(実は棺にオーバーの遺体は入っていなかったのだが。)オーバーがもっていたという「治癒能力(ヒーリングパワー)」が、鷹の一撃を通じてギー兄さんに受け継がれたのだ、という信仰が共同体の中でひろまった。それはおそらく、共同体の側に、そうあってほしいという欲求があって、タイミングよく鷹の襲撃があったのだろう。「奇跡」と呼ばれる出来事の成立にはこのような機微がかかわることが多いのではないか。
ともあれ、こうしてギー兄さんは「癒す人」として信仰の対象となった。それが「救い主」へ変化していくのは、皮肉なことに、その「治癒能力」が否定される事件が起きたからである。ギー兄さんを慕っていたカジが死んだこと、オーバーの遺体が掘り起こされテン窪に浮かんだことで、ギー兄さんに反感をもつ共同体の人間が集会を開き、彼を吊るし上げ、殴った。そしてそれを手引きしたのが、作者の分身と思われるK伯父さんの妹「アサさん」とこの小説の語り手である両性具有!の「私=サッチャン」だった。
『懐かしい年への手紙』との断絶のひとつに、この「アサさん」なる人物像がある。『同時代ゲーム』の「妹」は、語り手「僕」の近親相姦の対象であり、性的魅力を振りまく存在だった。『懐かしい年への手紙』では、お行儀はよくなったが、生き生きと活発な村娘だった。ところが、この小説の「アサさん」は、筋金入りの日教組の組合員で出世が遅れたという中学校の「校長の奥さん」である。なおかつ「遺言で託された」ために理屈はともかく化石のような「マルクス・レーニン主義者」なのだ。物語の最後、ギー兄さんを殺したセクトの残党五人組を「なかなかの人物揃い」と評価して救援活動を始めたというほどの。黄色いスバルを駆使して谷間と在を動き回り、徹底して実際的な立場から物語の交通整理をする彼女には、性的魅力のかけらもない。
性的(魅力があるかどうかは判断に悩むところだが)存在という点では、「サッチャン」は性的存在そのもである。両性具有なのだから。神話の世界では両性具有は神の特性なのだろうが、この小説でサッチャンという両性具有の存在は、アサさんと共謀してギー兄さんが殴られるように仕向けた。そして殴られたギー兄さんと性行為をして、彼を「救い主」として受けいれた人間なのである。
大江健三郎は、巧妙にもこの小説では自らを「K伯父さん」と呼んで語り手の役から降り、代わりに、「サッチャン」というオトコオンナからオンナオトコに「転換」した両性具有という名の「半陰陽」の若者に「このようなことがあったと言いはる」ように書くことを勧める、と記すのだ。この作品のわからなさの根本はここにあるのだろう。『燃え上がる緑の木』という定石通りの教団興亡史は、そのまま両性具有の「サッチャン」の自分史なのだ。「転換」したサッチャンは、「性の三位一体」を夢見るギー兄さんと結ばれ、そのことによって「転換」に意味をあたえた、と「言いはる」。「救い主」を支えるために「転換」して待機していたのだ、と。こう「言いはる」サッチャンの論理を、言葉の上でなく、実感として理解することは、少なくともいまの私にはできない。
作品の後半は、イエーツだけでなく、アウグスチヌスやシモーヌ・ヴェーユを引用して「魂の暗夜」に迫ろうという筆遣いである。シモーヌ・ヴェーユは私も一時期読んだことがあって(もちろん翻訳)、フランス語がまったくわからないのが残念だった。この作品が発表された九〇年代前半はヴェーユが読まれた時期だったのだ、となつかしく思う。ヴェーユ自身は第二次大戦中にハンガーストライキをして死んだ人だったが、何故かこの時期日本でもよく読まれた。研ぎ澄まされた感性が記す独特の哲学的断片が人を惹きつけるのだが、生活者としてこの世に根を下ろすことができなかった人だった。そのことはまた、この作品がバブル崩壊後の日本の経済情勢に触れながら、驚くほど生活に楽観的であるのと無関係ではないだろう。もう確実に峠を越して、山を下り始めているのに、まだ「魂のこと」に集中する集団を描くことができた時期だった。Rejoice!と結ぶことが可能な時代だったのだ。
もっと丁寧に作品に寄りそいながら書かなければいけないのですが、どうしても集中しきれませんでした。不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
0 件のコメント:
コメントを投稿