2013年12月2日月曜日

大江健三郎『月の男(ムーン・マン)』___象徴天皇のアトムスフィア満ちる月面世界に昇華する___不思議な不思議な物語

 「月の男(ムーン・マン)」は不思議な作品である。

 「みずから我が涙をぬぐいたまう日」という作品とあわせて『みずから我が涙ぬぐいたまう日』として出版され、その序に作者みずから「二つの中篇をむすぶ作家のノート」という自作自解の文章を書いている。それによれば「この過去と未来をつらぬく天皇制に根ざした多様な枷によって自分を縛ることから出発し、なんとか自由をかちえようとした作家は、彼自身の右側に『みずから我が涙をぬぐいたまう日』の真暗の水中眼鏡をかけた自称癌患者をおき、左側に『月の男』の、悔悛して環境保護運動にはいった逃亡宇宙飛行士をおいて、自分の想像力を前にすすませるための、一対の滑車としたのである」ということである。サブタイトルに掲げたへたくそな和歌もどきは私がつくったもので、「作家のノート」冒頭に記された

純粋天皇の胎水しぶく暗黒星雲を下降する

の対句として考えた。(こんなことをしていいのでしょうか)

 『月の男(ムーン・マン)』が不思議な作品である理由の一つに、この小説がほとんど批評の対象になっていないということがあげられる。作者の右側におかれたという『みずから我が涙ぬぐいたまう日』はその語りの複雑さにもかかわらず、多くの人に読まれているようである。錯綜する時系列から聞こえてくる荘厳な悲劇のシンフォニーに魅了されるのだろうか。それにたいしてこの『月の男(ムーン・マン)』はNASAから逃げ出した元宇宙飛行士が、妹の強姦死のニュースを聞いてアメリカに戻り、人力飛行機の普及に献身するというストーリーとしては単純な話である。機械文明から環境保護へ、人間の感覚を失った「科学」批判というテーマが受けいれられやすいので、なんとなくわかったような気になってしまうのではないか。だが、そんなにすんなり納得してもいけないと思う。

 
 物語は語り手の作家である「僕」と、かつて「僕」と関係がありいまはムーン・マンとよばれる元宇宙飛行士の情人である女流詩人の二人がムーン・マンのダイアローグの相手または通訳となって進められる。またスコット・マッキントッシュという反捕鯨運動家と、細木(サイキ)というヴェトナム戦争の脱走兵支援の運動をしている「新左翼」の活動家が登場する。スコットはムーン・マンに騙されて鯨の生肉を食べさせられて嘔吐し、日本での反捕鯨キャンペーンを中止して帰国するが、細木は反捕鯨のデモンストレーションと称してイルカのぬいぐるみを被り、事故とも自殺ともあるいは殺人ともつかぬ焼死をしてしまう。ムーン・マン自身は一九六九年六月十五日アポロ11号が月に着陸した日に、先に帰国したスコットによりもたらされた妹の強姦死の報せを聞いて「月の力が復讐したんだ」といって、長くのびていた鬚と髪を切り、アメリカ大使館に出頭する。

 二年間の拘束を経て、ムーン・マンは自由の身になり、彼の自由のために尽力してくれたスコット・マッキントッシュの影響もあって、鳥と「交感(コレスポンデント)」できるという人力飛行機の普及運動をはじめる。情人だった女流詩人とは正式に結婚し、彼女から「僕」に航空便が届く。それには人力飛行機運動のキャンペーンのために映画をつくりたいので、出版社に紹介してほしいと書かれていた。彼女のもとめに応じて渡米した「僕」は「静かな人々」と化したムーン・マン一家すなわちムーン・マンことルーヴィン・ガーシェンソン、彼の妻となった女流詩人フサコ・ガーシェンソン、二人の間に生まれた女の子アルテミス・桂・ガーシェンソンらに迎えられ、無数の人力飛行機を__それはゴム仕掛けの鳥なのだが__見るのである。

 以上があらすじだが、不思議なのは、このお伽話のような物語に「現人神」が登場することがどうしても唐突に思われてならないのである。ムーン・マンが日本語に興味を覚えたのは「現人神」という言葉とその存在があったからだという。そして、彼がNASAを脱出して日本に来たのは「現人神」たるあの人に会って、「月に行くな」といってほしいからだというのだ。そういうことは例がないから、と。この「誇張していえばキリスト教史全体にも匹敵しそうな巨大なユダヤ人の野心をそなえていた」とされる男にとって「現人神」とは何か。

 「現人神」は物語の最後にまた招致される。ムーン・マンは、あの人は反・人間のシンボルとして宇宙開発の先頭にたつのではなく、エコロジカルな意味で全世界的に大切にされるべきだと主張する。「およそ二千年ちかくも一つの生物学的な血のつながりを保っている、エコロジカルにまったくめずらしい貴重な種」だから、というのがその理由である。!彼はさらに、あの人が白い人力飛行機に乗り、下方で二人乗りの人力飛行機に乗っている宇宙飛行士姿の自分と水中眼鏡をかけた自称癌患者の青年に向けてメッセージを送るというシナリオを思い描くのだ。そしてそのメッセージは「二十世紀後半のすべての人間を救済するためのものでなければならない・・・・・・」という。

 荒唐無稽は、大江の場合、この作品に限ったことではないが、やはりふつうに考えてこれは不思議なほど荒唐無稽である。ここには主人公の語りに異を唱えるリアリストが存在しない。『みずから我が涙ぬぐいたまう日』の「遺言代執行人」や「母親」のような。ムーン・マンの情人でありながらその解説者だった女流詩人は「インディアン英語」を話す寡黙な妻となってしまい、なにより語り手の「僕」は、ニュー・ハンプトンの牧場に飛ぶ無数のゴムの鳥を見て Ah, birds, future birds と「涙の発作のような昂揚に襲われたのである」と物語を結ぶのである。

 最後に、小さな不思議をもう一つ取り上げたいのだが、長くなるので、それはまた機会があれば書いてみたいと思う。いつになるかわからないのだが。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

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