無信仰な者がキリストを語ることはできるか___難しい標題を掲げてしまったものだと思う。「無信仰な者」とは何か、という定義がまず難しい。「主よ、信じます。信仰のない私をお助けください」(マルコによる福音書9章24節)という有名なことばがある。だが、ここではあえて、一般的に、洗礼を受けておらず、自らをキリスト者として認めていない人、として論をすすめたい。自らをキリスト者として認めていない者がキリストを語ることはできるか。
大江は『ヒロシマの生命の木』の中で二回にわたってイエス・キリストについて語っている。最初はソヴィエトの作家アイトマートフとの対話の中で、彼の『処刑台』という作品の主人公アヴジイという青年を「いわばもうひとりのイエス・キリスト」と呼ぶ。アヴジイは《神のカテゴリーは、人類の歴史的発展に従って、時代につれて発展する》と考えるもと神学生で、麻薬がソヴィエトの青年たちを毒していることを憂え、危険を冒してその供給源を暴露しようとする。それだけでなく、密輸の結社に潜入し、かれらが手に入れた大麻を棄てるようにもとめる。そのようなアヴジイを大江は「繰り返されるそうした自己犠牲的な行為をつうじて、しだいにアヴジイは処刑台にあげられたイエスの、現在の新しい転換期における等価的な存在に限りなく近づく・・・・・・」と記述するのだ。
ここには大江のイエス・キリスト理解の特徴が明確に示されている。一つは「自己犠牲」という観念であり、もう一つは「新しい転換期」という認識である。そしてそれは、当然のこととして、対話の相手のアイトマートフとも共有するものである。大江の「無信仰な者として、このようなかたちでイエス・キリストに関心をもっているのです」という言葉に、アイトマートフもまた「私もキリスト教徒ではない。家族ぐるみイスラム教徒です」と応じている。
「歴史の分岐点=人類の危機の時、そこを乗り越えて新しい人間が生み出されなければ、人類は滅びるという時に現れて、新しい方向を示した人間がイエス・キリストではないか」という大江の問いに、アイトマートフも「新しい考えを生み出すために、もっとも辛い経験をした人がイエスだったと私は考えています。人類にとってイエスの体験を考えることで、いま必要な『新しい思考』をかちとるのに充分ではないかと思うほどです」とこたえる。
大江とアイトマートフに共通するのは、イエス・キリストの出現が歴史を変えた__新しい人間、新しい思考を生み出したということで__という認識である。しかし、この認識こそが信仰ではないだろうか。無信仰な者が福音書を読めば、体制に反逆して無残に殺された人間を神話化した伝承でしかない。一人の男が十字架に架けられて死ぬ。事実としてはそれ以上でもそれ以下でもない。その事実にそれ以上の意味を託するのであれば、自らをキリスト者として認めるべきではないか。
そうでないなら、それは、自らは安全な場に身をおいて、一人の人間を「自己犠牲」という美しいことばで祀り上げてしまう行為でしかない。
エッセイの後半でも、大江は物理学者フリーマン・ダイソンとの会話で作家ラスプーチンのイエス像について言及するのだが、こちらはほとんど具体的なことが語られていない。
最後に、標題とは直接関係ないのだが、第一章で、広島原爆病院の院長をつとめた重藤博士の経歴を読んで、絶句してしまったことを記しておきたい。重藤博士は一九〇三年生まれ。九州大学医学部を卒業して三九年に山口赤十字病院レントゲン科医長となり、理学療法科医長を兼ねる。翌年白血病に関する研究で医学博士。一九四五年七月二十日頃広島に転勤、広島赤十字病院副院長となる。大江はいう。「それはこの年の八月六日、世界はじめての原爆が襲う市にあらかじめ準備されていたこととして、不思議な思いを誘う出来事ではないか?」(下線筆者)しかも、博士は、この朝、前日の日曜日を生家で家族とともにすごし、一番の汽車で広島に向かいながら、部下の医師の身のふり方について国鉄の管理部と交渉しなければならず、その交渉に三十分ほどついやした。そのことが直接博士の命を救ったのかもしれない。
「あらゆる偶然は必然である」という箴言があったような気がする。
「フクシマの生命の木」という書物が書かれる日はあるのだろうか。
このように重くて複雑な、そして非常に微妙なテーマに取り組むに当たって、自分の力不足を認めざるをえません。不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
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