今日はサリンジャーはちょっとお休みです。朝から雨なので、日本の雨の歌をいくつか紹介したいと思います。日本人は雨の歌が好きです。「長崎は今日も雨だった」___いいですねぇ。前川清が若かったですね。「雨の外苑、夜霧の日比谷」って、題名は何だったでしょうか。もうひとつ日本人は地名を詠みこんだ「ご当地ソング」も好きです。若き日の森進一が絶唱した「港函館、通り雨」の「港町ブルース」もありますね。「雨と地名の日本歌謡史」をいつか書きたいと思っています。
「起きもせず寝もせで夜をあかしては春のものとてながめ暮らしつ」
「伊勢物語」第二段と「古今和歌集」に載っている。古今和歌集では、「弥生のつひたちより、忍びに人にものらいひてのちに、雨のそほふりけるに、よみてつかはしける、在原業平朝臣」とある。女のもとを訪れた男が、「起きもせず寝もせで___逢うには逢ったが、結局本意は遂げられないで一夜明かしてしまった。おりしも季節はもの忌みの春で、昼間もぼうっとした気分でいます。」と相手の女に送った歌である。古代は農耕の作業を始める前に、厳重な禁欲生活を送らねばならなかった、と折口はいう。それが春の長雨の時期と重なるので、春は「ながめ_長雨_禁欲」の季節として意識されたのである。
「花の色はうつりにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に」
「古今集」に「小野小町」作として載っている有名な歌。「花」が何とも特定されていないのだが、その花びらの色が変わってしまった、と時の推移を嘆いた歌である。「いたづらに」_無為のうちに_という言葉は「うつりにけりな」にかかるのか「ながめせし間に」にかかるのか、あるいは「世にふる」にかかるのか、揺れ動くものがあるが、この言葉が一首の焦点だろう。こちらの「ながめ」も禁欲してぼうっとしている間に、という意味と実際に「長雨が降る」という意味の両方がこめられているのだろう。「花の色」を自分の容貌にたとえたものであるとする解釈は、いわゆる「小町伝説」にひかれたものだと思われる。単純に花びらの色が変わってしまったことに、時の推移を気づかされて、それを嘆いたものと解釈した方が、悲しみが深い。
「うらさぶる 心さまねし。 ひさかたの 天の時雨の流らふ。見れば」
以前もとりあげた萬葉集巻一長田王の歌。折口信夫が「どうしてこんな歌ができたのかと思うほどだ」と激賞した歌である。「うらさぶ」も「心さまねし」も、現代語にどう訳すか難しい言葉である。「うらさぶ」は、「さざ波の国つみ神のうらさびて、荒れたる都みれば 悲しも」という高市黒人の歌が参考になるだろう。魂が遊離した状態をさす言葉であると思われる。「心さまねし」は寡聞にして他に用例を知らない。漠然とした不安な心理をいうのだろう。騒がしい相聞や儀礼的な羈旅歌にまじって、ひとり自分の内面を見つめようとする、心がしんとなる歌だ。雨の歌ではないのだけれど、長田王の歌のなかで私が好きなものをもう一首。
「聞きしごと まこと貴く 奇(くす)しくも神さびおるか。 これの水島」萬葉集巻三
「袖ひづる時をだにこそ嘆きしか身さへ時雨のふりもゆくかな」
「蜻蛉日記」と「続古今集」に「長月のつごもりのころ、いとあはれにうちしぐれけるけしきを見て 右近大将道綱母」として載っている。「涙で袖がぬれただけでも悲しかったのは昔のことでした。今はこの身まで時雨に、いえ涙にぬれそぼって年をとっていくのです」「蜻蛉日記」中随一の絶唱だと思う。夫兼家との葛藤は、道綱母が「石山詣で」で山に籠ることで頂点に達した。だが、それも父の倫寧の勧告で下山を余儀なくされる。これは、その激動の夏の後、冬の訪れをつげる時雨に兼家との愛の終わりを実感したものである。
平安時代を過ぎると、何故か「ながめ」の歌は詠まれなくなる。歌人たちの生活と「農耕作業開始前の禁欲」という観念が結びつかなくなっていったのだろうか。かわって「しぐれ」は日本の雨の歌、というより「わび」「さび」という文化の規範意識と密接に結びついて盛んに詠まれるようになる。
「世にふるは苦しきものを槇の屋にやすくも過ぐる初時雨かな」新古今集 三条讃岐から始まって
「世にふるもさらに時雨の宿り哉」宗祇
「世にふるも更にに宗祇のやどり哉」芭蕉
と続いて、さらに
「初時雨猿も小蓑をほしげ也」
また民謡の世界でも
「さんさ時雨か萱野の雨か」と謡われる。
近代になっても雨の歌の伝統はやむことがない。
「雨は降る降る、城ケ島の磯に。利休鼠の雨が降る。」北原白秋の「城ケ島の雨」である。
「雨の歌」は日本文学の発想の原点なのだ。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
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