2012年1月2日月曜日

沈む夕日に___深沢七郎をしのぶ

気がつけばずいぶん日が沈むのが遅くなった。夕方5時を過ぎても、まだ西の空は美しい茜色に染まっている。気温は低くて、寒さはこれから厳しさを増すのだが、今の季節の日没の時刻が好きだ。生まれたところも、移り住んだところも、ほとんどが山が見える場所だった。太陽はいつも、山の稜線の向こうに沈んでいった。

 深沢七郎も、山の見えるところで生まれ、山の見えるところで育ち、だが山は見えず、果てしなく続く地平線の向こうに太陽が沈む平野で死んだ。もう十数年前になるだろうか、私は深沢が最後に移り住んだ埼玉県の東北部の町をたずねて、彼が「ラブミー農場」となづけた農地の辺りに行ってみたことがある。もちろん、深沢が没してかなりの月日が経っていて、「農場」の面影はあるはずもなかったのだが、そんなに若くはないと思われる男の人が一人、作業をしていた。三百六十度の視界が広がる関東平野の田園地帯だった。

 「ラブミー農場」の場所をさがして、その町の役場をたずねたのだが、役場の職員の応対はとても親切だった。「風流無譚」の騒ぎ以降、各地を転々と放浪し、とくに郷里からは、石もて追われるごとくだった深沢にたいして、町の人が「深沢先生」と呼んで、没後も敬愛の念を抱いているようなのが、ちょっと意外だった。この土地で慣れない農家の生活を本気で目指した深沢が、必ずしもすんなりと受け入れられたとは考えられないのだが、それでもここを終の棲家に選んだのはなぜだろう、と思った。山また山が続く郷里の風土が恋しくならなかったのだろうか。

 いつか「深沢七郎論」を書きたいと思っている。代表作『楢山節考』の書き出しはこうである。
「山と山が連なっていて、どこまでも山ばかりである。」
ムラという共同体の論理を受け入れ、従順に従うだけでなく、その秩序を乱すものにたいしては制裁を加える実践にも、積極的に参加し、敢然と死んでいく主人公おりんの話は、山に閉ざされた小宇宙の童話だろうか。それとも、あまりにもリアルな現実そのものの叙述だろうか。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

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