一昨日予告していた「タラントのたとえ」について、考えてみたいと思います。
この話は、イエスの死後、最も早く書かれたといわれるマルコによる福音書と、最も遅れて書かれたというヨハネによる福音書には記されていない。ほぼ同時期に成立したとされるマタイによる福音書およびルカによる福音書にほとんど同じ趣旨のたとえ話が記されている。
旅行に出かけることになった主人が僕たちを呼んで、それぞれの能力に応じて、一人には5タラントン、一人には2タラントン、そしてもう一人には1タラントン預けた。しばらくして帰ってきた主人は、僕たちを読んで「清算」を始めた。5タラントン預かっていた僕は、商売をして5タラントン儲け、2タラントン預かっていた僕は同じく2タラントン儲け、それぞれ主人に「お前は小さなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」とほめられる。ところが、1タラントンしか預からなかった僕は、「ご主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集める厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。」と隠しておいた1タラントンを差し出す。すると、主人はこの僕を「怠け者の悪い僕だ」と叱り、さらに「わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに」と言って、この僕に預けておいた1タラントンを取り上げ、「外の暗闇に追い出せ」と命じるのである。
以上はマタイによる福音書の記事であって、ルカによる福音書では、お金の単位がムナになっていて、もう少し複雑な筋書きであるが、趣旨はほとんど変わりがない。ちなみに、聖書の注によれば、1タラントンは6000デナリ、1デナリは労働者1日分の賃金なので、5タラントは労働者30000日分の賃金!一生働いても労働者は手にいれることはできないだろう。1タラントも蓄えることは無理だろう。そのような巨額の資金を運用する僕を「小さなものに忠実だった」と評価する主人と僕の関係とは、どんなものなのか。そもそも、限られた期間に資金を倍にする、という行為は、投資というより投機である。投機に成功した者を褒めて取り立て、投機しなかった者にたいしては「怠け者だ!」と罵るばかりか、共同体から放逐してしまうとは、あまりにむごい話ではないか。また「蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集める」とは、苛斂誅求以外なにものでもない。どうしてこれが「天国のたとえ」になるのか。
このたとえ話については、田川健三が『イエスという男』の中で「資本の増殖と能力崇拝」という章を設けて詳しく解説しているので、私がさらに新しい解釈を付け加える部分はほとんどない。田川は、このたとえ話の主人と僕の関係を、神と、有能な者として神に選ばれた支配者との関係として捉えている。選ばれた僕としての支配者は、だから、神から委託されたものをさらに増やして、繁栄させなければならない。それは至上命令で、怠ることは許されないのだというのが、このたとえ話の主眼なのだろう。
しかし、このたとえ話をイエスは誰に向けて語ったのか。1デナリしか稼げない労働者たちに向かって語ったのだろうか。それとも、5タラントンを運用するような資産家たちに語ったのか。その日暮らしの労働者たちに語ったのであれば、大いに共感を得たに違いない。彼らに直接の抑圧を与えるのは、1タラントンを隠しておくような無能な支配者だから、そういう人間が「暗闇で泣きわめいて歯ぎしりする」光景を想像して喝采しただろう。だが、しかし、本当に彼らを支配し、生涯1タラントンも貯えることができないような境遇に置き続けているのは、5タラントンを運用する、あるいは5タラントンを僕に預けて旅行に行くような雲の上の資産家なのだ。逆に5タラントンを運用するような支配者層にむけて語ったのだとすれば、これは彼らに対する厳しい弾劾のことばである。聖書の記述は、死を目前にしたイエスが、オリーブ山のふもとで弟子たちに語ったとされているが、マルコとヨハネがこの話を全く伝えていないのは、あるいは、後世の纂入かとも疑われるのだが。
天国に関するイエスのたとえ話は他にもたくさんあって、必ずしもその趣旨が同じ方向を目指すとは思われないものもある。しかし、そのたとえ話を通して、イエスの生きた時代がどのような時代であったか、そして、イエスが無条件に受け入れている社会構造がどのようなものであったかを知ることができるのは興味深い。このたとえ話の主人の言葉として、マタイによる福音書の記者は「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる」と書き記す。これはまさに、古代であれ現代であれ、資本主義の現実そのものではないか。たとえ話ではなく。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
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