銀河鉄道は讃美歌の合唱とともに橄欖の森を通り過ぎていく。やがて青い森が「緑いろの貝ボタン」のように見えるようになり、その上で孔雀のはねが青じろく光を反射させている。橄欖の森=オリーブ山の上に立つ孔雀が何を象徴するのか、そのことについても考えなければいけないのだが、ひとまず、それは措いて、孔雀の声を話題にして、カムパネルラと女の子(ここでは「かほる子」と呼ばれる)が会話するのを聞いているジョバンニの疎外感に注目したい。
「孔雀の声だってさっき聞こえた。」とカムパネルラが言うと、女の子は、孔雀は三十疋ぐらい居て、ハーブのように聞こえたのは孔雀の声だと答える。「ハーブのやうに聞こえた」孔雀の声とは、青年をぞくっとさせた「何とも云へずきれいな音色」であり、それを奏でる「あやしい楽器の音」のことだろうが、孔雀の声はそんなにきれいな音色だろうか。孔雀は雉科の鳥で鳴き声は決して美しいとは言えないと思うのだが。
それはともかく、女の子とカムパネルラが親しくことばを交わす傍らで、ジョバンニは急にかなしくなる。カムパネルラを誘って、ここで降りようとしたくらいだった。ジョバンニはなぜ「俄かにかなしくなり」「こはい顔をして」カムパネルラと女の子を離そうとしたのだろうか。たんなる嫉妬だろうか。
この後、川が二つにわかれる。「そのまっくらな島」と書かれるのは川の中州のことだろうか、中州のまん中に高いやぐらが組まれ、その上に「寛(ゆる)い服を着て赤い帽子をかぶった男」が立っている。男は赤と青の旗を交互に振りあげ、「美しい美しい桔梗いろのがらんとした空の下」をせわしく鳴きながら通っていく何万という小さな鳥に「いまこそわたれ、わたり鳥。」と叫んでいる。
「まっくらな島」の「寛い服と赤い帽子」の男は何者だろう。銀河鉄道はどこを走っているのか。男が「俄かに赤い旗をあげて狂気のやうにふりうごか」すと、鳥の群れは通らなくなり、同時にぴしゃぁんという潰れたような音が川下の方でおこった、とあるのはどんな事態なのか。女の子の「あの人鳥へ教へてるんでせうか。」という問いにカムパネルラは「わたり鳥へ信号してるんです。きっとどこからかのろしがあがるためでせう。」と答えている。のろし?どこで誰があげるのだろう。
桔梗いろの空にのろしがあがる光景は、先に難破船から乗り込んできた青年が灯台看守とことばを交わした後にも描写されている。
「ごとごとごとごと汽車はきらびやかな燐光の川の岸を進みました。向ふの方の窓を見ると、野原はまるで幻燈のやうでした。百も千もの大小さまざまの三角標、その大きなもの上には赤い点点をうった測量旗も見え、野原のはてはそれらがいちめん、たくさんたくさん集ってぼおっと青白い霧のやう、そこからかまたはもっと向ふからかときどきさまざまの形のぼんやりした狼煙のやうなものが、かはるがはるきれいな桔梗いろのそらにうちあげられるのでした。じつにそのすきとほった綺麗な風は、ばらの匂いでいっぱいでした。」
ほんとうに「幻燈のやう」に美しく夢幻的な光景だが、この場面ですでに「狼煙」がうちあげられている。ところでこの「のろし_狼煙」のくだりは、第一次稿と第二次稿でカムパネルラは「わたり鳥へ信号してるんです。射手のとこから鉄砲があがるためでせう。」と説明している。総じて、第一次稿から最終稿への推敲の過程で、直接的具体的な叙述は控えられ、より抽象的、というよりあえて言えば曖昧な叙述にかわっていったように思われる。「すきとほった綺麗なばらの匂いでいっぱい」な風がそよぐ空にうちあげられる「狼煙(先の箇所では漢字で「狼煙」と表記されている)」が意味するものは何だろう。
鳥の群れが止まったと同時の「ぴしゃぁんという潰れたやうな音」と「のろし_狼煙」、ここは戦場だろうか。『「銀河鉄道の夜」の謎を解く』という著書のなかで、著者の三浦幸司氏は、この場面を陸軍の渡河演習の様子であると解釈しておられる。「寛い服」は満州人の着る「旗袍」で「ぴしゃぁんという潰れた音」は砲撃の着弾音であり、最終弾落下とともに「進め!」と号令をかけるそうである。だとすると、「せわしくせわしく鳴いて通って行く鳥」は戦場に駆り出された兵隊たちだろう。旗振り役が「旗袍」というの「は満州人に化けた日本兵」という二重の意味をもっていた、とされているが、そこまで特定しうるのだろうか。
「寛い服」を着た男が何者かわからないのだが、「せわしくせわしく鳴いて通って行く鳥」は、兵隊ではなく戦場を逃げまどう人々かもしれない。だとすれば、「寛い服を着て赤い帽子をかぶった男」は避難民を誘導する存在となる。いずれにしろ、この場面はこれまでの静謐な宗教的雰囲気とは異質な空間である。
なお、三浦氏は「賢治は軍隊が大好きな人で、「月夜のでんしんばしら」や「虔十公園林」にそれが表れていますし、反戦的といわれる「飢餓陣営」でもバナナン大将が兵士たちの実情(飢え)を理解することで大円団となっています。とくに『銀河鉄道の夜』では、軍事演習を見てジョバンニもカムパネルラも大喜びしていることに留意すべきでしょう。」と書かれているが、これはあまりに単純な見方ではないか。まずは、賢治自身が画いた「月夜のでんしんばしら」の表紙絵をみてほしい。兵隊帽をかぶった男の体に横木が三本つらぬかれている。何とも無残でグロテスクである。
「わたり鳥へ信号してるんです。きっとどこからかのろしがあがるんでせう。」とカムパネルラが答えると、車の中はしづまりかえる。ジョバンニは口笛を吹きながら涙にくれている。
「(どうして僕はこんなにかなしいのだろう。僕はもっとこゝろもちをきれいに大きくもたなければいけない。あすこの岸のずぅっと向ふにまるでけむりのやうな小さな青い火が見える。あれはほんたうにしづかでつめたい。ぼくはあれをよく見てこゝろもちをしづめるんだ。)ジョバンニは熱って痛いあたまを両手で押さへるやうにしてそっちの方を見ました。」
ジョバンニ自身も不可解なまでのかなしみの感情はどこから湧き上がるのだろう。また、その感情を鎮めるためにみつめる「しづかでつめたい」「けむりのやうな小さな青い火」とは何か。自然科学の世界では「青い火」は赤く燃える火よりさらに高温だが、「しづかでつめたい」のはこの世の炎ではないのだろうか。
「あゝほんたうにどこまでもどこまでも僕といっしょに行くひとはないだらうか。」というジョバンニの希求は満たされることなく、銀河鉄道の旅は続き、この後、汽車はしばらく川から離れてコロラドの高原を行くのである。
ほんとうはコロラド渓谷とインディアン、それから星とつるはしの旗のことを書きたかったのですが、その前の鳥の大群と「寛い服」の男で立ち止まってしまいました。例によって立ち止まって謎を深めているだけなのですが、とりあえず備忘録として書き留めてみました。最後まで読んでくださってありがとうございます。