世の中には「黙説法」という語り方があるという。中心となる事実は語らないで、その周辺を語る。語り口が巧みであるほど、読者あるいは観客の関心はたかまり、より多く知りたいという欲望にかられる。だが、決して、核心に直接触れることはできない。核心のまわりに衛星のように散りばめられたディテールが、かえって核心を隠すからである。ディテールに惹かれ、読者あるいは観客は核心に接近しようとするが、阻まれる。このような経緯を「接近、回避のディスクール」と呼び、その語り方を「黙説法」という。以上のことを、渡部直己氏の『不敬文学論序説』という書物で学んだ。
『千と千尋の神隠し』は、確信犯的に「黙説法」の語りで作品を組み立ていると思われる。さりげなく、緻密に描きこまれたディテールの深層を読み込まなければ表面上のプロットしかわからない。だが、そのディテール自体にこだわって、そこにある謎を解こうとしても、単独のディテールだけでは解けないのだ。作品全体が複雑に組み立てられたジグゾーパズルのようで、たった一つのピースでも欠けたらジグゾーパズルは完成しないように、すべてのディテールの意味が分からなければ、結局謎はいつまでも謎のままで、堂々巡りである。
黙説法の危険なのは、魅力的なディテールと一見わかりやすく感動を誘う表面上のプロットの威力で、多くの人にカタルシスをもたらすことである。剥き出しの真実より、美しいヴェールを人間は好むのだ。_______この頃は、もう、それでもいいかもしれない、と思ってしまう。年齢のせいだろう。
それでも、美しいヴェールをめくることはできなくても、その裾を踏んづけることくらいには挑戦してみたい。
この映画は、蛙となめくじが従業員で、経営者が魔女の「油屋」と言う名の湯屋が舞台である。湯婆と呼ばれる魔女は、鷲の鼻、もしくは天狗の鼻を持ち、眉間に丸い玉を埋め込んでいる。女の従業員は源氏名がついていて、「年季明け おめでとう」という貼り紙があるところを見ると風俗営業であるようだ。そこへ、一人だけ「いくら何でも人間はこまります」といわれる千尋が入ってくる。この店で人間は千尋だけである。ハクとリンは人間に数えられないようだ。経営者の湯婆は、明け方になると、手下を連れて空を飛び、何か偵察している様子で、これももちろん、人間ではない。
油屋は「八百万の神様が疲れを癒しに来るところ」で、客も人間ではない。ここに「オクサレサマ」ならぬ「名のある河の主」がやって来て、千尋にニガヨモギを与え、膨大な廃棄物と砂金を残して去っていく。従業員は砂金に群がって拾うが、拾った砂金はすべて湯婆に取り上げられてしまう。金に目が眩んだ従業員は、正体不明のカオナシが繰り出す偽造の金におびき寄せられて、手あたり次第食べ物と一緒にカオナシに飲み込まれてしまう。
ここまでの展開に、日本の高度経済成長からバブルへの仕掛けとその崩壊を読み取るのは、そんなに無理でもないと思う。「ニガヨモギ」が何か、という問題はあるが。難解なのは、その後である。なぜ、湯婆はハクに命じて、銭婆の持つ契約印を盗みに行かせたのか。ハクはどうやって盗んだのか。そもそも契約印とは何か。盗んだ契約印を千尋が勝手に銭婆に返してしまったことに対して、ハクはどう思うのか。せっかく盗んだ契約印を銭婆に返してしまった千尋に対して、なぜ湯婆は寛大なのか。等々、多くの疑問は、物語内部には、解決の糸口すら見つけられない。核心へのこれ以上の接近は拒まれている。
ここまで書いてきて、一番の疑問は、この物語が過去の出来事を語ったものか、それともこれから起きる未来の予告なのか、ということである。以下はまたしても、私の独断と偏見、妄想である。
どちらもまったく同じ顔をもつ双子の鷲がヒエラルキーの最上位にいる世界があって、その世界を回すエネルギーは油と金融である。油と金融で覇権争いがあって、油が覇権を握るかに見えたが、結局金融の覇権は揺るがなかった。ここに登場したのが、ニギハヤミと千尋という人間__日本人である。ニギハヤミの奪ったものを、千尋がニガヨモギの力で無にした。ニギハヤミも千尋も覇権の構造の外にある存在である。千尋は役割が終われば人間の世界に戻ることができるが、ニギハヤミはわからない。
というわけで、最後まで謎は謎のままで、ジグゾーパズルは完成できなかった。終わりに、DVDを持っている方は、「おわり」という文字が浮き出す最後の絵コンテを、もう一度よく見ていただきたい。水面に小さく靴が描かれ、白い波しぶきのようなものが何か所か描かれている。だが、目を凝らすと、水面下にいろいろなものが沈んでいるのがわかる。はっきり見えるのが車で、その他建物や、動物?のようなものも描かれているように見える。何のためにこのようなものを描いたのかわからない。エンディングに流れる主題歌ともども、何となく不気味である。
ちょっと寄り道のつもりが、随分長く立ち止まってしまいました。これから、また、幕末明治と島崎藤村に戻ります。今日も舌たらずなな文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。