2022年2月19日土曜日

宮崎駿『千と千尋の神隠し』__「黙説法」に挑む__再び「油屋」と「銭屋」の双頭支配について

  世の中には「黙説法」という語り方があるという。中心となる事実は語らないで、その周辺を語る。語り口が巧みであるほど、読者あるいは観客の関心はたかまり、より多く知りたいという欲望にかられる。だが、決して、核心に直接触れることはできない。核心のまわりに衛星のように散りばめられたディテールが、かえって核心を隠すからである。ディテールに惹かれ、読者あるいは観客は核心に接近しようとするが、阻まれる。このような経緯を「接近、回避のディスクール」と呼び、その語り方を「黙説法」という。以上のことを、渡部直己氏の『不敬文学論序説』という書物で学んだ。

 『千と千尋の神隠し』は、確信犯的に「黙説法」の語りで作品を組み立ていると思われる。さりげなく、緻密に描きこまれたディテールの深層を読み込まなければ表面上のプロットしかわからない。だが、そのディテール自体にこだわって、そこにある謎を解こうとしても、単独のディテールだけでは解けないのだ。作品全体が複雑に組み立てられたジグゾーパズルのようで、たった一つのピースでも欠けたらジグゾーパズルは完成しないように、すべてのディテールの意味が分からなければ、結局謎はいつまでも謎のままで、堂々巡りである。

 黙説法の危険なのは、魅力的なディテールと一見わかりやすく感動を誘う表面上のプロットの威力で、多くの人にカタルシスをもたらすことである。剥き出しの真実より、美しいヴェールを人間は好むのだ。_______この頃は、もう、それでもいいかもしれない、と思ってしまう。年齢のせいだろう。

 それでも、美しいヴェールをめくることはできなくても、その裾を踏んづけることくらいには挑戦してみたい。

 この映画は、蛙となめくじが従業員で、経営者が魔女の「油屋」と言う名の湯屋が舞台である。湯婆と呼ばれる魔女は、鷲の鼻、もしくは天狗の鼻を持ち、眉間に丸い玉を埋め込んでいる。女の従業員は源氏名がついていて、「年季明け おめでとう」という貼り紙があるところを見ると風俗営業であるようだ。そこへ、一人だけ「いくら何でも人間はこまります」といわれる千尋が入ってくる。この店で人間は千尋だけである。ハクとリンは人間に数えられないようだ。経営者の湯婆は、明け方になると、手下を連れて空を飛び、何か偵察している様子で、これももちろん、人間ではない。

 油屋は「八百万の神様が疲れを癒しに来るところ」で、客も人間ではない。ここに「オクサレサマ」ならぬ「名のある河の主」がやって来て、千尋にニガヨモギを与え、膨大な廃棄物と砂金を残して去っていく。従業員は砂金に群がって拾うが、拾った砂金はすべて湯婆に取り上げられてしまう。金に目が眩んだ従業員は、正体不明のカオナシが繰り出す偽造の金におびき寄せられて、手あたり次第食べ物と一緒にカオナシに飲み込まれてしまう。

 ここまでの展開に、日本の高度経済成長からバブルへの仕掛けとその崩壊を読み取るのは、そんなに無理でもないと思う。「ニガヨモギ」が何か、という問題はあるが。難解なのは、その後である。なぜ、湯婆はハクに命じて、銭婆の持つ契約印を盗みに行かせたのか。ハクはどうやって盗んだのか。そもそも契約印とは何か。盗んだ契約印を千尋が勝手に銭婆に返してしまったことに対して、ハクはどう思うのか。せっかく盗んだ契約印を銭婆に返してしまった千尋に対して、なぜ湯婆は寛大なのか。等々、多くの疑問は、物語内部には、解決の糸口すら見つけられない。核心へのこれ以上の接近は拒まれている。

 ここまで書いてきて、一番の疑問は、この物語が過去の出来事を語ったものか、それともこれから起きる未来の予告なのか、ということである。以下はまたしても、私の独断と偏見、妄想である。

 どちらもまったく同じ顔をもつ双子の鷲がヒエラルキーの最上位にいる世界があって、その世界を回すエネルギーは油と金融である。油と金融で覇権争いがあって、油が覇権を握るかに見えたが、結局金融の覇権は揺るがなかった。ここに登場したのが、ニギハヤミと千尋という人間__日本人である。ニギハヤミの奪ったものを、千尋がニガヨモギの力で無にした。ニギハヤミも千尋も覇権の構造の外にある存在である。千尋は役割が終われば人間の世界に戻ることができるが、ニギハヤミはわからない。

 というわけで、最後まで謎は謎のままで、ジグゾーパズルは完成できなかった。終わりに、DVDを持っている方は、「おわり」という文字が浮き出す最後の絵コンテを、もう一度よく見ていただきたい。水面に小さく靴が描かれ、白い波しぶきのようなものが何か所か描かれている。だが、目を凝らすと、水面下にいろいろなものが沈んでいるのがわかる。はっきり見えるのが車で、その他建物や、動物?のようなものも描かれているように見える。何のためにこのようなものを描いたのかわからない。エンディングに流れる主題歌ともども、何となく不気味である。

 ちょっと寄り道のつもりが、随分長く立ち止まってしまいました。これから、また、幕末明治と島崎藤村に戻ります。今日も舌たらずなな文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2022年2月16日水曜日

宮崎駿『千と千尋の神隠し』__ニガヨモギの如意宝珠、鳥になった両親?契約印の魔法

 『千と千尋の神隠し』には不思議な効果をもつ「モノ」がいくつかでてくる。体が「融けていく」千尋に、ハクが飲ませた赤い錠剤(?)、空腹の千尋がむさぼる大きなお握り。お握りには、「千尋が元気になるように魔法をかけておいた」とハクはいうのだが、なぜか食べながら千尋は泣きじゃくっている。だが、一番不思議で、一番重要なのが、翁面の「名のある河の主」が千尋に与えたニガヨモギの草団子である。

 この草団子は、どんな効能をもつのか。千尋はこれを豚になってしまった「お父さんとお母さんに食べさせようと思った」と言っている。だが、食べた両親が人間に戻ることが出来るかどうかは分からないはずである。それを千尋は瀕死の龍ハクに飲み込ませる。するとハクは盗んだ契約印と黒いタールのような液体を吐き出し、人間の姿となる。さらにまた、食べ物も人間も手あたり次第に飲み込んで、怪物化したカオナシの口にも放り込む。カオナシもまた、ハクと同じように飲み込んだものすべてを吐き出す。ニガヨモギとは吐瀉剤なのか?千尋はニガヨモギが吐瀉剤だと知っていたのか。そんな筈はないのだが。

 おそらく、千尋が翁面の龍から授かったニガヨモギの団子は、如意宝珠と呼ばれる「龍の玉」の寓意だと思われる。龍の脳みそからとれるともいわれる如意宝珠は、その名の通りどんな願いもかなえる珠であるという。千尋の渾身の行為を翁面の龍は「善哉」と言祝いで、万能の珠をあたえたのだ。

 だが、それが「ニガヨモギ」である理由は何か。

 効能はなさそうだが、不思議なモノはまだある。ひとつは、ハクが湯婆の部屋に行くとき、なぜかエレベーターに乗らずに、建物の内部を螺旋状に上る階段を登っていくのだが、その途中に不思議な袋が二つ吊り下げられている。肌色の布の袋のようで、そんなに大きくはない。何が入っているのだろう。そして、なぜ、この場面があるのだろう。

 不思議な鳥も登場する。傷ついたハク龍を追いかけて、千尋が建物の外から危険を冒して湯婆の部屋に上っていくときに、二羽の白い鳥が千尋の周囲を飛んでいる。何も論理的根拠はないが、この二羽の白い鳥は千尋の両親のように見える。だが、なぜここに白い鳥、もしくは千尋の両親が登場するのかわからない。

 ニガヨモギの効能を考えるとき、忘れてならないのがハクが盗んだ契約印との関係である。海原鉄道に乗って、銭婆の家を訪れた千尋が「銭婆さん、これ、ハクが盗んだものです。お返しに来ました。」と契約印を差し出す。銭婆は「あんた、これが何だか知ってるかい?」とたずねる。「いえ、でも、とっても大事なものだって。ハクの代わりに謝りにきました。ごめんなさい。」と千尋が頭を下げると、銭婆はしげしげと判子を見て、小さな声で「おや、まもりのまじないの魔法が消えてるね」とつぶやく。千尋が「あの、判子から出てきた虫、あたしがつぶしちゃいました」というと、銭婆は「踏みつぶした?!あんた、あれは、妹が弟子を操るために、龍にかけた魔法だよ。踏みつぶした!あ、は、は」と大笑いする。

 このくだりは、非常にわかりにくい。敢えて分かりにくくしているように思われる。ここで呈示されている事実は二つある。一つは、契約印にかけられた「まもりのまじないの魔法」(かけたのは銭婆だろうか)が消えているということ。もうひとつは、契約印と一緒にハクの体から「虫」__黒いタール状の液体がとびだしたということである。「虫」とは湯婆が「弟子を操るために龍にかけた魔法」であり、千尋がそれを踏みつぶした、ということは、「弟子を操るために龍にかけた魔法」もまた消えたということだろう。この二つの事実はニガヨモギの効能と関係があるのか。

 最後に、ニガヨモギと契約印の魔法の関係は、ひとまず措いて、千尋の行動について考えてみたい。瀕死のハクが吐き出した契約印を、千尋が、ハクの代わりに銭婆に返す。そして「ごめんなさい」と謝る。銭婆もこれを受け入れ、龍の姿でやってきたハクに「あなたの罪は、もう咎めません」と許す。一件落着で、めでたしめでたしの大円団だが、ほんとうにそれでよかったのか。ハクが命がけで銭婆のもとから奪い取った契約印を千尋は「大事なものだって」と言って、独断で返してしまう。盗んだものを元の持主に返すのは「よい」行為で、千尋は「よい子」、という文脈は、ドラマづくりの巧みさから何となく受け入れられてしまう。強欲で酷薄そうな湯婆と、質素で優しそうな銭婆が対比的に造型されていることも、その流れを後押しする。

 だが、契約印がどういうもので、なぜ湯婆が奪おうとしたのか、という根本的な問題は曖昧にされたままである。もしかしたら、「根本的な問題」などなかったのかもしれない。あるように見せかけて、さまざまな謎を仕掛け、最後まで関心を惹きつけておいて、効果的な音楽と緻密な作画で観客にカタルシスを味わわせることが目的のすべてだった、といったら言い過ぎだろうか。あるいは、本当の核心は隠したままで、その周辺を丁寧に繊細に描くことで、観客にいつまでも繰り返し作品を反芻させることが目的だった、とは言えないだろうか。

 上記の問題提起については、もう少し論旨を整理して(できるだろうか)、考えてみたい。その前に、千尋の神話的深層についても触れなくてはいけないのだが、うまくまとまるだろうか。ハクが「ニギハヤヒ」であるという前提にたてば、千尋は「ヒルコ」である、というのが今の私の仮説なのだが。 

 論の展開が少し強引だったかもしれません。今日も未整理な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

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2022年2月10日木曜日

宮崎駿『千と千尋の神隠し』__「大湯」という能舞台、「セン」と「リン」、「ふむ」という所作

 自転車とスパナの謎は解けないままだが、「名のある河の主」の登場について、ひとつ気になることがあるので、本筋にあまり関係ないかもしれないが、少し書いてみたい。

 「名のある河の主」登場から退場の場面は、能「翁」と「三番叟」を下敷きにしているものと思われる。突拍子もないことをいうようだが、この作品の作者は、たんに日本の神話に詳しいだけでなく、民俗学(折口学?)にも相当の造詣を持つ人ではないか。

 センとリンが「オクサレサマ」を迎えた「大湯」のしつらえは、壁面に松の古木を描いた能舞台そのものである。松は神の降りてくる木と考えられていて、松の下で芸能を行うと、神が松を下って来て舞う。これがすなわち翁である、と折口信夫はいう。その松を「はやして」(分離して)持ち運び、舞踏の場(かならずしも舞台と限らない)に据え、舞う。いまでも、舞台正面に松の絵を描くだけでなく、その脇に本物の松の枝を据えている能舞台もある。

 この「大湯」という能舞台に上がるのが、「オクサレサマ」の様相をした「名のある河の主」である。「オクサレサマ」あるいは「名のある河の主」は、降りしきる雨の中、太鼓橋を渡って油屋に向かう。悠揚迫らぬあゆみである。能「翁」の最初の詞章は、シテが直面で舞い、謡う

 どうどうたらりたらりら たらりららりららりどう
 ちりやたらりたらりら たらりららりららりどう

とあって、まったく意味不明だが、何となく、オクサレサマの様子をイメージできるのではないか。オクサレ神を大湯の間に案内して歩く千尋の後ろ姿も極端なガニ股で、普通の歩き方ではない。

 「翁」「三番叟」は、いまは演じられなくなった「父尉」と合わせて「式三番」と呼ばれる。白い尉面を付けて舞う「翁」、黒い尉面をつけてふむ(舞う、とはいわないそうである)「三番叟」の順に演じられる。ストーリーはなく、シテの「所千代までおはしませ」から始まる言祝ぎの詞章が展開される。白い尉面をつけて舞う翁は、松から降りてきた神と考えられていて、装束も神々しく、舞うさまも厳粛、荘重である。それに対して黒い尉面をつけてふむ三番叟は、滑稽味を帯びて、動的だ。「日本藝能史序説」の中で、折口は、以前、「翁」の本芸にたいして、三番叟は「もどく」芸で、象徴的な白式尉の舞に平俗な説明を加えるものであると考えていたが、後になって考えてみると、この順序は逆かもしれない、といっている。

 少し寄り道になるが、折口の説明に耳を傾けてみたいと思う。折口は「でもんとかすぴりっととか言ふ、純粋な神でない所の、野山に満ちているあにみずむの當體、即、精靈の祝福に来る事が、まづ考へられるのである。」という。ただし、精霊たちは、最初から人間を祝福しに来るものではない。人間に居場所を奪われた精霊たちは、常に悪意を持って反抗しようとしている。だから、機会あるごとに、人間は精霊を押さえつけて、服従を誓わせ、逆に自分たちを祝福しに来させるようにした。こういう低い神々が、時を経て出世してくる。アニミズムの対象であったものが、神社に祀られてくる、と折口はいう。すなわち、発生の順としては、精霊の表徴化された黒尉の三番叟が先である、と。

 要約の仕方がたどたどしくて、我ながら浅学を恥じるばかりだが、敢えて、折口に語らせたのは、黒尉の翁のふむ演技に注目したいからである。三番叟では、最初は直面で、次に黒尉の面をつけて、次第に高潮して演じられるのだが、この時、鈴を渡されて踊るのだ。扇をかざし、鈴を振ってダイナミックに踊るそのさまは、抗う精霊たちを何としても屈服させようとする所作である。同時に精霊たちの抗うさまにも見える。鈴は、抗う精霊たちを引き寄せ、また、屈服させる両義的な機能をもつ道具なのではないか。そして、「セン」と呼ばれる千尋を「手下(ハクの表現である)」にした「リン」の正体は「鈴」ではないだろうか。

 もうひとつ黒尉の翁の演技で特徴的なのが、文字通り「ふむ_踏む」所作である。地中の精霊を踏みつける動作が様式化されて繰り返される。この動作が作品中映像化された場面がある。小さな鼠に姿を変えられた「坊」がやっている。傷ついたハクがニガヨモギの団子を飲み込んで、銭婆から奪った契約印を吐き出したときに、契約印と一緒にハクの口から黒い、タールのようなものが出てくる。生き物のようにピョンピョン跳ねるその物体を千尋が踏みつぶすと、それが土間に流れ落ちて、不思議なかたちの黒い跡(これの正体がこの作品の謎を解く重要な鍵である)ができる。それを「坊」がたくさんの煤(ススワタリというそうだ)に囲まれた中で、踏みつけるのだ。歌舞伎の「見得」のようにも見えるが、黒尉の「ふむ_踏む」所作なのだろう。

 最後にもう一度大湯という能舞台に戻って考えてみたい。この舞台の登場人物はいうまでもなく、千尋と「名のある河の主」である。酸鼻をきわめる「オクサレサマ」を迎えた千尋が、描かれた松の木の根本をたたくと、はめ込まれていた戸が倒れて、薬湯の札を掛ける紐が垂れてくる。千尋がそれに札を引掛けると札が窯爺に届く。そうして、千尋が湯舟の上に垂れ下がった紐を引っ張ると、神の降臨ならぬ大量の薬湯が上から落ちてくる。千尋は濁流にのまれてしまうが、濁流の中から腕のようなものが伸びて、千尋をすくい上げる。その後、「油屋一同心をそろえて、イヤー、オ~レ」と銭婆に鼓舞され、皆で「オクサレサマ」の体に刺さっていた「トゲのような」自転車のハンドルを引き抜くと、様々な堆積物が押し出されてくる。

 さらに千尋ひとり釣竿の糸のようなものを手繰り寄せている。千尋がそれを精一杯引くと、今度は下から清流が湧いて出て、千尋は再び呑み込まれてしまう。清流が流れ去ると、ハァーという声が洩れて、画面は真っ白な背景に木彫りの翁の面が浮き上がり、翁の面は「善哉」と一言いって、龍の姿になって去る。千尋の手にニガヨモギの団子が残されている。さて、この翁は白尉なのか黒尉なのか。いずれにしろ、能舞台から「翁」は去った。そして、千尋も「セン、そこをお退き!」と銭婆に言われて、舞台を下りる。「セン」はもしかして、翁の露払いをする「千歳」の役を演じたのだろうか。

 舌足らずなのにくだくだした、達意とほど遠い文章で、さぞ、読みにくかったと思います。この「大湯の場」については、また別の角度から考察しなければならないと考えています。もう少し、時間がかかると思います。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2022年2月2日水曜日

宮崎駿『千と千尋の神隠し』__どうしても解けない謎__たくさんの腕を持つ龍、コハクヌシ、など

  作品の大まかなプロットはいくらかつかめたように思うのだが、細かな事がどうしても気になって、先に進まない。どうでもいいことなのかもしれないが、少しずつ書き出して考えたいと思う。

 冒頭、花束を抱いた女の子が運転中の車の後部座席に横たわっている。「やっぱり田舎ね」という女の人の声がかぶさると、画面全体が亀裂が入ったように二度揺れる。車の振動ではないようだ。何?「買い物は隣町に行くしかなさそうね」という女の人の声に対して、男の人の声が「住んで都にするしかないさ」とこたえるのも、ちょっとおかしいといえばおかしい。ふつうは「住めば都さ」とかえすのではないか。「住んで都にする」のは、大袈裟に言えば、権力をもつ者にのみ可能なことだと思われる。

 エアコンの効いた車内で、窓を開けることの不思議については以前も述べたので、ここでは繰り返さない。その後、トンネルを抜けて、父親が振りかえると、建物の頭頂部に奇妙な二つの時計があって、それぞれが違う時刻を指している。また、その文字盤が左右反転した算数字だったり、よく読み取れない漢字だったりして、まともに機能していないことを暗示している。これから先の空間には、それぞれ異なる時間が流れ、しかもそれが歪んでいる、ということなのだろう。

 千尋の両親が食べ物の匂いにつられて入り込んだ飲食店街については、前回「つげ義春「ねじ式と河の神」_めの世界」で述べたので、深く立ち入ることは避けたい。世にいう陰謀論が好きな人には説明するまでもないだろう。それと関連して、湯婆の部屋のしつらえもいわくありげである。天上に張り付けられた巨大な鳥(鷲?)の翼の彫刻__まん中に丸で囲んで「油」と描いてある__と、本棚を埋め尽くす百科事典の本が物語る記号も「めの世界」を示唆している。

 最も不気味なのが、後半、ハクが傷ついた龍の姿になって倒れ込むシーンで、一瞬映し出される恐竜のような鳥の剥製である。吹き抜けの屋根から吊り下げられているのだろうか、よく見ると、まん中に人間のような形のものが透けて見える。手と足はそれぞれ四本指で爪が生えているが、恐竜の翼に磔けられたキリストのように見えなくもない。

 だが、何といっても、この映画の最大の謎は、「名のある河の主」が龍の姿になって油屋を去る場面だろう。油屋のあたり一帯が暗い雲に覆われ、激しい雨が降り始める。まさに龍神の登場の予告である。オクサレさまの姿で油屋を訪れた「名のある河の主」は、翁の面に変身して、千尋にドラゴンボールならぬよもぎ団子を与える。「善哉」とひとこと言って龍に化身し、高笑いとともに去る「名のある河の主」は、湯婆に「お帰りだ!大戸(王戸?)を開けろ!」と叫ばせるほど「畏れ多い」存在のようである。

 だが、不思議なことに、この龍には角がない。さらに奇妙なのが、体のなかに無数の腕を持っているのだ。人間の腕のようだが、よく見ると指は四本で海老なりに曲がっている。たくさんの腕を持っているが、それが、尾に近くなると、腕というよりは肢のようにも見えてくる。はたしてこれは龍神なのか?

 龍神といえば、「ニギハヤミコハクヌシ」と名乗る少年ハクは、紛れもない龍神である。立派な角の生えた白龍として颯爽として登場する。「すごい名前!神さまみたい!」と千尋にいわれる「ニギハヤミ」という名前も、古事記に登場する「饒速日(ニギハヤヒ)」を連想させる。「饒速日」は天の磐船に乗って降り立ち、神武東征前の大和の地を治めていた、とされる。それまで協力関係にあったが、神武に従わない長髄彦(妻の兄であった)を討ち、神武に大和の地を国譲りしたが、その後の伝承はない。まさに隠された、あるいは隠れた神である。

 なので、ハクが龍神とされることは疑う余地がないのだが、「コハクヌシ」について、どう考えればいいのか。

 銭婆の家から帰るとき、龍の姿になったハクの背に跨ってハクの角をつかんだ千尋は突然思い出す。自分が小さいとき川に落ちて溺れそうになったときのことを。いまは埋め立てられてマンションになってしまったその川の名が「コハク川」だった、と千尋は言い、ハクに「あなたの本当の名はコハク川」と言う。その瞬間、龍の鱗が飛び散り、ハクは人間の姿になる。「私も思い出した。千尋が私の中に落ちたときのことを。靴を拾おうとしたんだ」とハクもこたえ、千尋が「そう、コハクが私を浅瀬に運んでくれたのね。うれしい」と言って、千尋とハクは手をとりあい、空を飛ぶ感動のシーンとなる。

 この成り行きはちゃんと辻褄が合っているようだが、何となくひっかかるものがある。なぜ、龍の背にまたがって角をつかむと、自分が溺れたときのことを思い出すのか?その川の名が「コハク川」だからハクの名前が「コハク川」だ、と千尋が断言できるのはなぜか?

 千尋の回想の言葉に先立って、画面には、水中で龍らしきものの背に跨った裸足の足が映され、その後、ピンク色の靴(たぶん左足の方)が川面に浮かび、みるみる遠ざかる。流れは速く、川幅は広く、海のようである。これが「コハク川」だとしても、埋め立てられてマンションになるような川幅の川には見えない。それから、遠ざかる靴の映像の後、突然、太い腕(これもたぶん左腕)が大きな音を立てて水面に挿し込まれる。これは何を意味するのか?

 わからないことはまだまだあるのだが、長くなるので、今回はこれまでにしたい。最後に、また蛇足をひとつ。油屋の店は、従業員が全員古代人風の衣裳を着ているが、湯婆はきんきらきんの洋装である。「天」と表示される階にあるその居室も豪華絢爛で、国籍不明だが、まったく日本風ではない。そして、最後にハクが湯婆と対決するシーンで、窓の外の景色なのか、大きな絵画が貼られているのかよくわからないが、どこか外国の風景が映される。山を背にした大きな建物が正面にあって、スイスかどこか、ヨーロッパの山岳地方のようである。その直前、坊の幕屋の背後にちらっと熱帯の島のような風景が見えるのも不思議なのだが。

 次回はもう少しまとまりのある文章を書きたいと思います。今日も最後まで読んでくださって、ありがとうございます。