三島由紀夫『豊穣の海』第二作『奔馬』は、とくにそのラストが昭和四五年十一月二十五日の事件と関連づけて論じられることが多い。たしかに、『奔馬』は1970.11.25の盾の会の蹶起とその失敗を予告、というより実践したもののように見える。それは、ある意味まさにその通りなのかもしれないが、いや、その通りであるからこそ、ここに書かれていることは、言葉を失ってしまうほどの衝撃的な事実なのではないか。
三島由紀夫とは何者なのか。
最初に題名の「奔馬」という言葉について考えてみたい。ほとんどの辞書には「奔馬_荒れ狂って走る馬。また、勢いの激しいことのたとえ」とある。「奔馬」という言葉は、「一人一殺」あるいは「一殺多生」のスローガンのもと要人テロとその計画があいついで起こった昭和維新と呼ばれる時代とそのヒーローを象徴するものとして用いられていると思われる。
昭和六年三月事件から始まり、十月事件、血盟団事件、五.一五事件、神兵隊事件、十一月事件、国体明徴、天皇機関説排撃事件、永田鉄山中将殺害事件、そして昭和十一年二.二六事件にいたる六年間に九つもの重大事件が起こった。日本国内だけでなく、世界のあちこちで暗殺テロが相次いだ。人々はこうした殺人、破壊行為を「国家革新」の旗印のもとに、むしろ肯定的に受け止める風潮だった。この時期は、事件を起こした実行者たちだけでなく、それを裁く司法までも含めて、「昭和維新」の美名のもとに、荒れ狂った馬のように理性を失っていたのである。
ところで、「奔馬」という言葉は、前作『春の雪』の文章の中にもさりげなく埋めこまれている。夭折する美の体現者松枝清顕の親友本多繁邦が、湘南の海の砂浜で海に対峙している。ここに書かれている繁邦の思いは、作者三島の歴史観のエッセンスといってもいいものだろう。それを簡潔に要約することは私の能力を超えているが、いくつかの文章を抜き書きして考えてみたい。
・・・・そして本多と清顕が生きている現代も、一つの潮の退き際、一つの波打ち際、一つの境界に他ならなかった。
……海はすぐその目の前で終わる。
波の果てを見ていれば、それがいかに長いはてしない努力の末に、今そこであえなく終わったかがわかる。そこで世界をめぐる全海洋的規模の、一つの雄大きわまる企図が徒労に終わるのだ。
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あの橄欖いろのなめらかな腹を見せて砕ける波は、擾乱であり怒号だったものが、次第に怒号は、ただの叫びに、叫びはいずれ囁きに変わってしまう。大きな白い奔馬は、小さな白い奔馬になり、やがてその逞しい横隊の馬身は消え去って、最後に蹴立てる白い蹄だけが渚に残る。
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しかし沖へ沖へと目を馳せると、今まで力強く見えていた渚の波も、実は希薄な衰えた拡がりの末としか思われなくなる。次第次第に、沖へ向かって、海は濃厚になり、波打ち際の海の濃厚な成分は凝縮され、だんだんに圧搾され、濃緑色の水平線にいたって、無限に煮詰つめられた青が、ひとつの硬い結晶に達している。距離とひろがりを装いながら、その結晶こそは海の本質なのだ。この希いあわただしい波の重複のはてに、青く結晶したもの、それこそは海なのだ。
これを、私の言える一言でいえば、「諦観」だろう。あるいは「時間の概念のない歴史」を鳥瞰する目。波打ち際という境界にあって、無限の彼方の「距離とひろがりを装いながら、青く結晶したもの」を見る目。海は始原の、永遠の「青い結晶」に凝縮され、「逞しい横隊を組んだ」「白い奔馬」は、はその「蹴立てる白い蹄」の残像が記録されるだけだ。
この諦観が『春の雪』という第一作で呈示されていることは、『豊饒の海』四部作を語るうえで、決して見逃してはならない点であると思われる。そして、ここに私の「躓きの石」がある。このように、諦観もしくは韜晦の境地に到達していながら、なぜ『奔馬』の後『暁の寺』『天人五衰』を書き継がなければならなかったのか。それから、作家の実人生を作品読解に持ち込まない、という自戒をあえて破る愚を冒していえば、なぜ「三島事件」は起きたのか。
以上の疑問がいつまでも私の中にわだかまっていて、堂々巡りの思考からぬけだせないでいるが、まずは原点に帰って、『奔馬』という小説の世態風俗、人情に触れなければならない。この作品の成立には、明治九年熊本で起こった神風連の乱が影響を与えているといわれるが、実はプロットの大枠は昭和八年の神兵隊事件によるのではないか。また、個々の登場人物の造型にはそれぞれの事件のさまざまな実在の人物をモデルにしているようである。尊皇愛国の志に燃えた若者が本懐を遂げるまでの直線的な物語のように見えて、かなり複雑な仕掛けが隠されているように思われる。仕掛けの一端でも読み解ければ、と思うのだが、難題である。何かまとまったことが書けるようになるまで、もう少し時間がほしいと思う。
気がつけば日常の光景が一変していて、信じられないような世界に生きています。何が起こっているのか、何故なのか、「今」を理解できなくてもがいています。情報はあふれていますが、必要なのは情報ではなくたしかな実在感です。薄気味悪い浮遊感の漂う中で、性根を据えて作品に向かい合う時間がつくりだせないでいます。ひとえに非力のなせるわざですが。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。