2019年4月23日火曜日

宮沢賢治『ポラーノの広場』__つめくさの花と聖パトリックの生涯

 その青じろいあかりが「つめくさのあかし」と呼ばれるつめくさの花のモチーフは「『ポラーノの広場』という作品の中で唯一の童話的要素である。「レオーノキュースト誌/宮沢賢治訳述」と冒頭に記される『ポラーノの広場』は、レオーノキューストの自分史ともいうべき小説である。この小説の中で、キューストたち三人を夜のポラーノの広場に導くかのように、野原一面に咲くつめくさの花は、何を寓意するのだろうか。

 つめくさの花の一つ一つに番号が記されていて、それを五千までたどればポラーノの広場に行くことができるという。作品中に、「レオーノ(獅子)」「山羊」「山猫」「御者(別当)」と星座の名前が用いられていることから、つめくさの花の番号は、天文学で使われる星の番号すなわちNGCという四桁の数字ではないかという仮説があるそうである。それでは、つめくさは、地に咲く星だろうか。

 つめくさの花が地に咲く星であるというイメージは非常に美しい。美しすぎるほどだが、賢治はつめくさの花を「この世を照らすひかり」としてモチーフにしただけなのだろうか。ここでまた、独断と偏見と妄想にかられる私は、つめくさ(正確にはシロツメクサ)とキリスト教のつながりについて考えてみたい。

 五世紀アイルランドにキリスト教を布教した聖パトリックという人がいる。四世紀の後半ウェールズのケルト人(ローマ人とも)のクリスチャンの家に生まれたが、十六歳のとき海賊にさらわれ、アイルランドに奴隷として売られる。六年間羊飼いとして働いた後神の召命を聞き、牧場を脱走して、およそ三百キロを歩いてウェールズに戻ったが、神学を学ぶためヨーロッパに渡る。七年間、神学を学んだ後帰国し、家族の反対を押し切って四三二年再びアイルランドを訪れてキリスト教の伝道をする。ドルイド教を信じていたアイルランド人十二万人を改宗させ、三六五の教会をたて、多くの讃美歌を作ったともいわれている。

 賢治が聖パトリックの生涯を知っていたという証拠はないのだが、知らなかったという証拠もない。博覧強記の賢治のことだから、知っていた可能性はあると思う。さらわれて奴隷となり、羊飼いをして六年間働き、その後召命を聞き脱走して聖職者の道に進む。その生涯の流れが『ポラーノの広場』のファゼーロ、ミーロのそれと重なってくるように思われる。

 もうひとつ、こちらのほうが重要かもしれないが、聖パトリックが伝道のとき、いつも手にしていたのが「シャムロック」という三つ葉のクローバーなのである。聖パトリックがシャムロック_三つ葉のクローバーを手にしていたのは、「父と子と聖霊」の三位一体を説明するため、といわれる。あるいは「信仰、希望、愛」とも。

 シャムロック_つめくさはキリスト教の信仰、あるいはキリストそのものの象徴である。賢治がこのことを知っていてつめくさを『ポラーノの広場』の重要なモチーフにした、というのはそんなに無謀な仮説ではないと思う。だが、「ポラーノの広場」とつめくさの花の関係は、実は微妙で複雑なものがある。

 キューストたちがポラーノの広場を見つけ出したのは、つめくさの花の番号をたどって行ったからではない。山猫博士の馬車別当に「這いつくばって花の数を数えて行くようなそんなポラーノの広場はねえよ」と嘲われたが、ファゼーロとミーロは広場の物音を頼りに探しあてたのである。

 つめくさの花は、キューストたち一行がポラーノの広場に着くまで夜の野原を照らす。広場で開かれていた酒宴の場でも「つめくさの花の咲く晩に」「つめくさの花のかおる夜は」と歌の主題となって歌われる。つめくさの花の咲きほこるときポラーノの広場の宴も最高潮だった。楽隊の音楽と人々のどよめき、いろいろな花の匂いと混ざったお酒の匂い、山猫博士の不思議な酔態・・・雑多な、だが活気にみちた夜の気配が描写され、キューストとファゼーロが家路につくときも、つめくさのあかりは二人を照らしていた。

 だが、それから二月余りが経って、姿をくらましていたファゼーロと出張から戻ってきたキューストが再会し、二人が山猫博士が置き去りにした工場に向かう晩には、もうつめくさの花は枯れて葉も縮んでしまっていた。ファゼーロ、ミーロそれにファゼーロの姉のロザーロや村の老人たちも一緒になって、ハムを作ったり、革をなめしたり、後に産業組合となる組織の萌芽がこの工場で芽生えるのだが、このときつめ草の花はその役割を果たしたかのように萎れていく。

 「そこへ夜行って歌えば、またそこで風を吸えばもう元気がついてあしたの仕事中からだいっぱい勢いがよくて面白いようなそういうポラーノの広場をぼくらはみんなでこさえよう。」とファゼーロは言って広場の開場式をするのだが、そこでは「つめくさの花の終わる夜は」「つめくさの花のしぼむ夜は」と、つめくさの花の終焉が歌われるのである。

 そして、風がやって来る。キューストのきもののすきまから吹き込む冷たい風。ファゼーロの言葉を途中でかき消す風。開場式でみんなが飲むコップの水を波立たせる風。キューストに別れを告げるファゼーロの言葉やみんなの叫ぶ声もかき消す風。

 賢治はつめくさの花に何を象徴させたかったのだろう。『ポラーノの広場』の主人公はレオーノ・キューストでも、ファゼーロでもなくつめ草の花なのではないかと思われてくる。あるいは、晦渋にみちて自己処罰的に描かれたレオーノキューストの分身_純潔で貞節な信仰の象徴としての_がつめ草の花である、とも。

 ようやく『ポラーノの広場』とつめ草の花についてのささやかな考察に一区切りがつきました。この後、レオーノキューストについてもう少し書いてみたいと思っていますが、まだ時間がかかりそうです。今日も最後までつきあってくださってありがとうございました。

2019年4月5日金曜日

映画『運び屋』__男と女、そしてデイリリー

 閑話休題。『ポラーノの広場』について書けないので、映画鑑賞などして怠けています。

 カメラマンをしている愚息に「クリント・イーストウッドがたまらなく素敵でセクシーだから、絶対見に行け」と脅迫されて、『運び屋』という映画を観た。映画に関してはまったくのビギナーなので、この映画について詳しく知りたい方は「運だぜ!アート」というブログをご覧になることをお勧めします。勝手に他人のブログを紹介して、著者の方にはご迷惑かもしれないけれど、この映画だけでなく、ほとんどのクリント・イーストウッドの作品について、ゆきとどいた解説がなされていて素晴らしい文章です。彼の映画が「アメリカ」とどのように切り結んできたのか、その問題意識も的確のように思われます。

 と、いうことで、またまた私の言うことなどないようだけれど、たぶん、これは、女だから言えることで、女だから言ってもいいことだと思うので、あえて言ってみたい。クリント・イーストウッドは「老い」を表現して「セクシー」(愚息は肘のしわまでセクシーだと言っていた)だけれど、同年齢の女優が「老い」を表現して「セクシー」といわれることがあるだろうか。最大限想像し得るのは「可愛い」ではないだろうか。ベティ・ディビスとジョーン・クロフォードという有名な女優二人がかつて「何がジェーンに起こったか」という映画で老いを演じたことがあったが、「可愛い」とは程遠い姿だったように思う。一言でいえば「凄惨」である。

 いや、あれはアメリカの女優だったからそうなったので、日本の女優たち、たとえば森光子とか山田五十鈴といった名優は十分美しかったではないか、という声が聞こえてきそうである。彼女たちはたしかに魅力的だった。だが、彼女たちが魅力的だったのは、「老い」を表現して魅力的だったのではない。スクリーンや舞台に出ていた最後まで「女」だったからである。「女」を表現して魅力的だったのだ。

 男は「老い」と「老い」に伴う孤独に耐えられるけれど、というより男は生まれたときから孤独が運命だろうが、女は「老い」と孤独にたえられないのだ。少なくともひとりでは。

 『運び屋』のアールの妻メアリは、家庭をかえりみない夫が許せなかった。孫娘の結婚式でアールから「きれいだよ」といわれても「過去をやり直すつもり?」と受け付けない。娘が生まれたときも、それから様々な節目の行事のどのときにも、アールが傍らにいることはなかった。メアリはひとりで生きてきたのだ。

  癌に冒されて死の間際のメアリは、運び屋の任務を放棄して駆けつけたアールに「あなたはいつも外にでていた。外の世界に価値があった。」と言う。その後、彼女は「あなたは私の最愛のひと。そして最大の痛みをあたえるひと」と言って息をひきとる。何という鮮烈な愛の言葉!

 そして、メアリを演じる女優のすばらしいこと!ひとりの男を想って、孤独にたえて、死の間際に戻ってきた男を受け入れて、死んでいく。女の悲しみと喜びをこんなにも切なく美しく表現できるとは。

 でも、この女優は、いうまでもなく「老い」を表現したのではない。「女」と「愛」を表現したのだ。ひとりの女が人生の最後で満たされた「愛」。

 『運び屋』の見どころは前述の「運だぜ!アート」にほぼ網羅されていると思われるが、ひとつだけ私が気になったことがある。映画の最初と最後に出てくるユリの花は、キリスト教ではかなり象徴的な、特別の花である。旧約聖書の「雅歌」2章は

 わたしはシャロンのばら、野のゆり。
 おとめたちの中にいるわたしの恋人は
 茨の中に咲きいでたゆりの花。

と始まる官能的な詩だが、新約聖書「マタイによる福音書」6章28節

 野の花がどのように育つのか、注意してみなさい。働きもせず、紡ぎもしない。
しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていなかった。

この「野の花」は(なぜか)ゆりの花とされている。
イエスその人を象徴したものがゆりの花であるという説もある。
 
 アールが最初におんぼろトラックで麻薬を運びながら「イエスは困った人を救いに来たんだ・・・」という歌を鼻歌交じりで歌っていたシーンもなぜか印象深い。アールは麻薬を運んだお金で困った人たちをみんな助けた。気前よく。自分のためにはいくらも使わないで。

 映画のモデルとなった老人が花栽培の農園を経営していたそうだが、主人公のアールがユリの花、とくに一日だけ咲くというデイリリーを愛してやまなかったという設定になったのは、実話に基づいているだけでなく、何か深い隠された意味があるのではないか。それもメアリに「あなたは芽がでるときだけ(そばにいる)」といわれるような愛し方で愛するということに。もっとも最後には、刑務所の花畑でいつもつききりで世話をして終わるのかもしれないけれど。

 エンディングに流れる Don't let the old man be in という歌の題名が「老いを迎え入れるな」と訳されていたのが感銘深かった。そして複雑な気持ちになった。私のブログのプロフィールにある通り、私がいままで見た数少ない映画の中で、一番好きな映画は『俺たちに明日はない』である。この映画は1967年アメリカで公開され、日本では1968年に公開された。アメリカ30年代の大恐慌時代の実話をもとにした作品である。同じように、実際の犯罪をもとにした『運び屋』が2018年に公開された。50年余を経て、アメリカも日本も、もちろん私も、変わった。年老いた。

 林檎をかじった後、体中蜂の巣のように銃弾を浴びて死ぬボニーとクライドの最後は、世界にたいして強烈に「ノー」を突きつけた。時代は1968年にピークを迎える学生運動の全盛期だった。そしていま、二十一世紀となって、優しくあたたかく「老いを迎え入れるな」と励まされる。励まされてようやく生きていく老後はもうすぐそこかもしれない。でも、私が望むものは励ましではない。私を含めた全世界に「ノー」という若者だ。いや、若者だけではない。何より私が「ノー」といわなければならない。

 Don't let the old man be in

直訳は「老人を中に置き去りにするな」だろう。

 とりとめもない駄文を最後まで読んでくださってありがとうございます。mule_騾馬という題名になった言葉についても考えているのですが、あまりにくだくだしい駄文を連ねても、映画からうける感銘をそこなうような気がするので、また機会があれば、と思います。