2018年1月1日月曜日

大江健三郎『晩年様式集』__私らは生き直すことができるか

 非常に粗雑なたどり方ながら『晩年様式集』まで来てしまうと、ある種の到達感、というより虚脱感を覚えてしまって、何も書けないでいる。書くことはあって、むしろ、書かなければならないことは確実にあるのだが、作品論のかたちをとれないのだ。ひとえに私が怠惰なためである。この場を借りて、書かなければならないことをひとつだけ挙げておこう。『晩年様式集』の結びの部分にある
 
 私は生き直すことができない。しかし私らは生き直すことができる。

という詞章について、私はどうしても受け入れられないのだ。

 敗戦の日、玉音放送の後、小学校の校長が「私らが生き直すことはできない!」と叫んだ。それに対して作者の母親が述べた言葉が上記の詞章である。作者はこの言葉を『形見の歌』と名付けた詩集のなかの一編に引用し、その一編の結びの詞章ともしている。ことわっておくが、この詩は作者が七十歳のとき、つまり三・一一以前の詩である。生まれたばかりの初孫に一瞬自分の似姿を見た作者が、その子の生きてゆく歳月の過酷さを思い、老境にある自らの窮状をみつめつつも、最後にこう結ぶ。

 否定性の確立とは、
 なまなかの希望に対してはもとより、
 いかなる絶望にも
 同調せぬことだ・・・・・・
 ここにいる一歳の 無垢なるものは、
 すべてにおいて 新しく、
 盛んに
 手探りしている

 私のなかで
 母親の言葉が、
 はじめて 謎でなくなる。
 小さなものらに、老人は答えたい、
 私は生き直すことができない。しかし
 私らは生き直すことができる。

 否定の確立が絶望の肯定ではない、という命題に異論はない。キルケゴールのいうように「絶望は罪である」だろう。だが、そのことと、この世に生を受けて間もない存在を登場させ、「私らは生き直すことができる。」と結んでいいのか。一連の詞章の流れから、この結句がすんなりとおさまってしまいそうなのが、危険である。

 「私らは」の語感は複雑である。ささいなことにこだわるようだが、「ら」という接尾語は一般には相手にたいして自らを卑下するときに使われることが多いように思う。
 憶良はいまは罷からむ 子泣くらむ そもその母も吾を待つらむぞ
という万葉集の歌がある。現代語でも、謙遜というより卑下のニュアンスがつきまとう。それがある種の開き直りにつながり、そこから作中アサのいう「母には校長さんに対して覚悟を決めているところがあって」という態度につながるのだろう。

 「大君の辺にこそ死なめ」と歌わせた校長が「私らが生き直すことはできない!」と叫んだとき、作者の母親が「私は生き直すことができない」としながら「私らは生き直すことができる」と言ったのは母親の果敢な抵抗精神である。「私ら」には「私」が含まれるのだ。校長のような偉いさんはどうでも、庶民の「私」「ら」は生き直す、と。それに対して、『形見の歌』の「私ら」はどうだろう。七十歳の「私」は「盛んに手探りする」初孫_次世代に「私ら」の内容を託そうとしているのではないか。

 話は少しそれるが、大江健三郎は伊丹十三の死をあつかった『取り換え子』の最後にも、ナイジェリアの作家ウオーレ・ショインカの戯曲『死と王の先導者』から

 __もう死んでしまった者らのことは忘れよう。生きている者らのことすらも。あなた方の心を、まだ生まれて来ない者たちにだけ向けておくれ。

という結びの台詞を引用している。ウオーレ・ショインカという作家は一九三四年生まれで一九八六年にノーベル文学賞を受賞している。だが、不思議なことに、ノーベル賞大好きの日本の出版界がショインカの作品を翻訳出版していないようなので、『死と王の先導者』について詳しく知ることはできない。(作中の訳は大江健三郎がつけたもので、「死んでしまった者ら」、「生きている者ら」の「ら」と「あなた方」の「方」、「まだ生まれて来ない者たち」の「たち」と複数形を使い分けていることにも注意してほしい)ウィキペディアによると、王に殉死するはずだった馬番が、英国人の行政官夫妻の善意で、儀式の際中に逮捕、監禁される。英国に留学中だった馬番の長男が帰国し後継者になるが、憤った民衆に殺されてしまう。馬番は女族長に罵倒され、汚辱の中に死ぬ、というあらすじのようである。上記の台詞は最後に女族長が投げかけた言葉である。

 戯曲が発表されたのが一九五九年で、ナイジェリアが独立する前、ショインカは二五歳である。この後、ナイジェリアは長い内戦状態になるのだが、若きショインカは過去と訣別の宣言をしたのだ。この台詞を、大江健三郎は『取り換え子』の最後で、塙吾良の最後の恋人とされる浦シマの出産に立ち会うためドイツに出発する千樫にむけた餞の言葉として小説を結ぶ。吾良は死んだ。だが、その吾良が最後に愛した浦シマが、吾良の子ではないが、孕んでいる。千樫は吾良の妹として、また古義人の妻として、浦シマを支えるべく日本から出国する。

 ストーリーの流れから、すんなり読めて納得してしまいそうになるのだが、私は最初から微かな、だが確実な違和感、もっといえば不快感を覚えていた。これは、ふつうの言葉でいえば、ご都合主義ということになるのではないか。ショインカの戯曲の女族長の台詞を、そのベクトルの向きを正反対にして、換骨奪胎して使ったのではないか。

 「私は生き直すことができない。しかし私らは生き直すことができる。」美しい言葉である。しかし、この言葉は死への誘惑__「私」の死と「私らの生」とを肯定する方向を向いていないか。「私」が生き直すことができないで、「私ら」は生き直すことができるのか。できる、という発想は「大君の辺にこそ死なめ」に再びつながらないといえるのか。少なくとも文学は、それがプロパガンダでないなら、「私は生き直すことができない」から出発し、その原点を離れることなく現実を撃つのではないだろうか。

 大江健三郎という存在は何なのか。

 大江健三郎という存在を考えるにあたって、一九六四年に発表された二つの小説『個人的な体験』と『日常生活の冒険』をとりあげてみたかったのですが、まだ力不足のようです。大江は『日常生活の冒険』の中で、早々に伊丹十三(作品中では斎木犀吉)を死なせてしまっています。一方『個人的な体験』では、障害をもった子の父親として現実生活を担う決意を宣言します。伊丹十三はその後魅力的なマルチタレント(ほんとうに才気あふれるという意味でのタレント)として活躍し、大江は職業作家としてつねに時代の第一人者となります。その意味で一九六四年という年とこの二つの作風のまったく異なる小説は重要だと思うのですが、いくらかでもまとまったことを書くにはもう少し時間がほしいと思っています。

 今日も不出来な文章を読んでくださってありがとうございます。