連作短篇集『雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち』の第四作目。第二作「雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち」に登場したペニー(ペネロープ・シャオ=リン・タカヤス)が「僕」に宛てた手紙から始まる。
亡くなった高安カッチャンが「高級コールガール」といって連れてきたペニーは、カッチャンの妻であり、なおかつ文学の研究者で、日本語が堪能な女性だった。彼女は「僕」の小説を日本語で読んで、そこに描かれた高安カッチャンがあまりに卑小で病的であるのがAWAREである、と抗議してきたのだった。高安カッチャンとペニーは、彼女の研究対象であるマルカム・ラウリーと妻のマージョリーが彼らの憧れの地であるブリッテシュ・コロンビアの漁村エリダナスでそうしたように、ハワイで至福と再生の生活をおくるはずだった。それを台無しにしたのは「僕」である、とも。
《さようなら、私はもうあなたの友人ではないと思います。》と書いてきたペニーと「僕」はハワイで再会する。「僕」はハワイ大学の日本文学研究者が主催したシンポジウムにパネラーとして参加したのだが、日系アメリカ人と思われる聴衆に足元をすくわれるような批判を受けて立ち往生してしまった。するとそこに、ペニーが(前作と同じように)「スルリ」と現れ、理路整然と堂々たる英語で反論して「僕」の急場を救ってくれたのだ。
その後、ペニーと「僕」は食事をともにする。彼女はカッチャンをミクロネシアの孤島に埋葬、というより散骨したことを報告し、さらに、ザッカリー・K・タカヤスというカッチャンの遺児の話をする。「ザッカリー」というファーストネームから読み取れるように、彼はカッチャンがユダヤ系の女性と結婚していた時期にもうけた息子であり、アメリカ人と再婚した母親のもとで育った。いま人気音楽グループのリーダーとなった彼は、ペニーのもとに残されていた父の膨大な草稿__それはほとんどマルカム・ラウリーの引用だった__からインスピレイションを受け、音楽を作り始める。
お互いに一つの皿から分け合って食べる「夫婦のような」食べ方をした後、別れ際にペニーは「僕」にザッカリーのLPレコードを一枚くれる。そのジャケットの裏に書いてあったのは、「K・タカヤスのノートによる」という注釈がついていたが、ダグラス・デイのマルカム・ラウリー評伝の文章で、それ以外何もなかった。そして、ここから、ダグラス・デイの文章がほぼ二頁にわたって小説中に引用される。ダグラス・デイの文章そのものがパール・エプスタインの著書からの孫引きであるとことわっているのだが、これが、マルカム・ラウリーの作品、生涯の解説、というよりユダヤ教のカバラの解説なのである。
以下、神の創造とセフィロト、あるいは生命の樹、その転倒である地獄機械、地獄機械によって転倒したセフィロトであるクリフォトなどの概念が説明されるのだが、ここで疑問に思うのは、この小説が発表された一九八一年の時点で、ダグラス・デイ、パール・エプスタインいやマルカム・ラウリーでさえ、一般の読者はどの程度知っていたのだろうか。私はそれらの人名はもとより、「カバラ」という固有名詞が何をあらわすのか知らず、セフィロトやクリフォトなどまったくちんぷんかんぷんであった。いまは、インターネットというものがあって、自宅である程度の検索ができるが、当時だったら、図書館に日参できる環境でなければ大江健三郎の作品を理解することはあきらめていただろう。大江健三郎はどのような読者を対象として小説を書いていたのだろうか。
「生命の樹」の概念と地獄機械という発想はこの小説の根幹をなすものであり、マルカム・ラウリーという作家を登場させたのは、そのような形而上学的概念の具象化が目的だったのではないかと思われる。作者はこの後ハワイ在住の老婦人との交流を語り、彼女が意図した反核運動の挫折を記述する。それは同時に「僕」の挫折でもあって、その事態に対する憤怒から「僕」はワイキキの海でひたすら泳ぐことに没頭していたのだが、そこに再びペニーが現れる。日本にいるときからの計画にあったように、一緒に「雨の木(レイン・ツリー)」のある施設に行ってみようという「僕」の提案に対して、彼女は「死んだ人のことより、生きている人間のことをしよう」といって、彼女の友人のアパートに「僕」を誘う。
友人のアパートに向かう道中、ペニーは___それは同時に死んだ高安カッチャンの言葉であったが___反核運動の無意味を語る。運動のレベルの程度にかかわらず、アメリカ人の反核運動は全て無意味で、アメリカ圏とソヴィエト圏すなわち現代文明の大半は核の大火に焼きつくされる。なぜなら、すでに地獄機械は動き始め、セフィロトの木は転倒してしまっているのだから。高安は、ニューズ・ウイークの表紙から切りぬいた原爆のキノコ雲の写真を、「転倒したセフィロトの木」と書きつけて、ラウリーの引用と一緒にノートに貼りつけていた、と。
帰国して半年後、ペニーから写真を同封した手紙がくる。その写真には、真っ黒な基底部を残して無残に焼けつくした巨木を中央に、ペニーとアガーテ(「頭のいい雨の木(レイン・ツリー)」に登場するドイツ系アメリカ人)と思われる二人の女性が写っていた。手紙には、「僕」の雨の木(レイン・ツリー)」は燃えてしまった。まもなく文明圏は原爆の大火で燃えてしまうだろうが、それは世界が長年にわたって行ってきた自殺の"only a ratification"である、と書かれていた。また、自分自身は核の大火に焼かれなければならない人間だとは考えていない。核の爆弾をつくりだす文明に手を貸したことのない太平洋の島に移住して、そこに根付く「荷物(カーゴ)・カルト運動」を新しく始めるつもりだ。それは「原水爆荷物(カーゴ)・カルト運動」と呼ぶべきものである。文明圏が核の大火に焼かれれば、多くの物資が荷物(カーゴ)として太平洋に漂い出る。島の人びとはそれを拾い、何十年かして放射能が減少したら、カヌーに乗ってでかけていけばよい、とも。
ここで述べられているペニーの思想は、作品制作時の作者大江の思想だろうか。そうであっても、なくても、いま、この時点で振り返れば、少なくとも二つの意味で、この思想は間違っていた、といわざるを得ない。「核の大火が文明圏を焼き尽くす」という黙示録的発想はわかりやすかったし、そう警鐘を鳴らすことで核戦争になにがしかの抑制力をもつと思われたかもしれない。しかし、現実には、全面的な核戦争は起こらなかった。ペニーが考えていたような二つの大きな文明圏の対立は、一方のソヴィエト圏が消滅してしまったことで、核戦争のトリガーたりえなくなった。いや、二つの大きな文明圏の対立というより端的にアメリカとソ連の冷戦構造だったが、それは権力の側の図式であって、「世界が長年にわたって行ってきた自殺の"only a ratification"」ではない。「世界」という表現で曖昧にされてしまっているが、文明圏の人々であろうが、太平洋の島々の人びとであろうが、権力の側でない庶民は「長年にわたって自殺」などしようとはしていないのだ。
しかし庶民は「長年にわたって殺されている」。全面的な核戦争は起こらなかったが、地球上のいたるところで、とくにいわゆる文明圏でない地域で、原爆より小規模な、しかし残忍な破壊力を持つ兵器によって、大量に人間は殺されている。殺された人間は、セフィロトの木に登ろうとして、掟を乱したから地獄機械のようにひっくり返ってしまい転落していったのではない。地獄機械、という言葉を使うのなら、それはあらゆる兵器を製造し、使用するように仕向ける体制そのものを指して使うべきだろう。
いま私は小林正一という物理学者の言葉を思っている。
「神に依り頼まぬ者は必ず倒れるということを物理学者が明確に把握しなくてはいけないと思う。・・・・物理学者と技術者が国から何と言われようとも原爆の制作を拒否したら、どうしても原爆は存在しなくなるはずのものである。しかしそれには十字架を負う覚悟が必要である」
(『聖国への旅__小林正一・郁子遺稿追悼集』一九八六年九月)
『主に負われて百年___川西田鶴子文集』(二〇〇三年二月新教出版社)より
小林正一という物理学者は一九八三年九月大韓航空機撃墜事件で郁子夫人とともに亡くなったキリスト者である。
今日も未整理な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
2016年9月20日火曜日
2016年9月9日金曜日
大江健三郎『「雨の木(レイン・ツリー)」の首吊り男』___「自殺」という首吊りの方法
連作短編集『雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち』の第三作目で、第五作目「泳ぐ男__水の中の雨の木(レイン・ツリー)」に次ぐ長さの小説である。短編、というより短い中編といったほうがいいかもしれない。作家の「僕」が半年ほどメキシコに滞在して、当地の「学院(コレヒオ)」で客員教授をしていた時の体験に基づいて書かれている。
内容は平易でわかりやすい。小説の発端は、帰国した「僕」が、カルロスという男が癌に冒されたという噂を聞いて、衝撃を受ける場面である。カルロスは学院で事務をとるかたわら「僕」の通訳をしてくれたペルー人で、メキシコに亡命してきた日本文学の研究者だった。彼は研究者といっても、アカデミズムよりは作家個人のゴシップに関心をよせる人物で、何より肉体的な苦痛を恐れていた。もしも癌に冒されることになったら、苦痛のきわみで苦しむよりは首を吊って死にたい、と言っていたのである。
カルロスはまた、作家の「僕」に「首吊り」による自殺願望があることに関心を寄せていた。カルロスと「僕」は「首吊り」というキーワードでつながっていたのである。メキシコ・シティーを去るとき、「僕」はカルロスがHAIKUと呼ぶ次のような詩作を残したのだった。
Without you,
I would have hanged myself
Under a bougainvillaea shrub.
物語には、「僕」とカルロスを中心に、カルロスを脅かす彼の元妻セルラさん、大使館員を名告って「僕」の前に飄然と現れる山住さんが登場する。カルロスの共同研究者、というより実質的な研究はセルラさんが主体だったが、彼女は山住さんを使って「僕」を動かし、カルロスがセルラさんとよりを戻さなければ、亡命者の政治セクトに命を狙われる、と思い込ませようとしたのだ。だが、『僕」がカルロスとセルマさんの軋轢を心配している余裕はなくなった。日本に残してきた障害をもつ息子が、思春期の訪れにともなう失明、という事態に陥ったことがわかったのだ。
太平洋を越えてはるか彼方の日本からかかってきた国際電話で息子の失明を知らされて、「僕」は何もできない、しない、という「退行現象」に陥ってしまう。アパートの先住者が残していった「カラヴェーラ」と呼ばれる骸骨人形に囲まれて、マンゴーだけを食べながら外の世界と隔絶して、四日間ベッドに横たわったままだった。
「僕」と連絡がとれないのを不審に思った山住さんがアパートを訪れて、「僕」は現実に復帰したのだが、山住さんが仕切った酒宴の主人公に祭り上げられて正体もなく酔いつぶれてしまう。そればかりか、山住さんのトラブルに巻き込まれて黒服の日本人会社員の二人連れに痛めつけられ、挙句の果ては、いかがわしい曖昧宿に連れ込まれて、娼婦たちの嬲りものになる。
というドタバタが語られ、結局「僕」は任期半ばで日本に帰ることになる。帰国にあたって学院で開いてくれたパーティの席で、カルロスは「僕」にフィチヨル・インディアンのつむぎ糸絵画を贈ってくれた。それは絵画の中央に大きな木が描かれ、なおかつ登場する人物のひとりが首を吊っているように見えるものだった。「僕」はその絵を見て、描かれている木をみずからが「雨の木(レイン・ツリー)」と呼ぶ宇宙樹としてとらえ、このような木の下で、絵に描かれているのと同じように、生涯の師匠(パトロン)の立ち合いのもとに首を吊ることができたら幸せであろう、という感想を述べた。
それに呼応して、カルロスが言った言葉が前述のように、自分もまた同じようなことを考えている。肉体的な苦痛を何より嫌がる自分が、もし癌だとわかったら、インディアンから手にいれた、幸福感のうちに死にむかうことのできる薬草を噛んで、首を吊りたい。自殺を許さないカトリックの妻の監視を逃れて、首を吊るのによい木が生えているペルーまで同行してくれる人をさがしておきたい、というものだったのである。
以上のように、この小説はストーリーが分かりやすく、起承転結が整っていて、よくまとまった中編小説のようにみえる。ある種の要領の良さはあるが、軽薄で享楽的な美男のカルロスと、学究的な能力は高いが容貌の醜い先妻のセルマさん、カルロスのファンクラブだが故国の体制にはっきりと批判的な亡命者の女たち、プロフェソールと呼ばれながら、事あるとエキセントリックで幼児的な対応しかできない「僕」、「オペラで不吉な情報を伝えるために舞台にあらわれる密偵めいた役どころを連想させる」山住さん、など魅力的な人物が登場する。ストーリーの展開が面白いので、すらすら読めるのだが、最後までいって、はて、この小説は何だろう?と思ってしまう。何が腑に落ちないのだろうか、と考えてみると、「僕」がカルロスに揶揄されるほど一貫して「首を吊る」ことにこだわった理由が私にはわからないのだ。
敢えて乱暴な言い方をすれば、大江健三郎の文学のテーマは「首吊り」と「強姦」である。この二つのテーマのどちらかが取り上げられない作品はほとんどないのではないか。『万延元年のフットボール』のように、二つとも存在する作品ももちろんある。そして、とくに「首吊り」についていえば、作者の関心は、それを方法として選ぶ自殺の動機にあるのではなく、「首を吊る」という行為そのものにあるように思われる。強姦について、いま詳しく検討する余裕はないが、「不必要な強姦、あるいは不自然な強姦」がプロットの中に組み込まれることが多いように思われる。
私は、大江健三郎が一貫して「首吊り」にこだわる理由がわからないので、後年彼が「魂のこと」にこだわり「救い主」にこだわる理由もまたわからない。「魂のこと」は小説の主題たりえるだろうか。「救い主」もまた然り。その中間の「アンチ・キリスト」なら小説の主題たりえるように思う。素人の独断と偏見だけれど。
この小説は連作短篇集の中央に位置する作品だが、「雨の木(レインツリー)」は宇宙のメタファーというより、首吊りの木であり、前作との関連は薄いように思われる。前作に登場した高安カッチャンもペニーも登場しない。おそらくこれは、作者のメキシコ滞在の経験に基づく独立した短編(もしくは中編)を連作短篇集に組み込んだものではないか。だが、そのことが連作集にどのような意味をもつのかはよくわからない。次作「さかさまに立つ雨の木(レイン・ツリー)」には再びペニーが登場し、高保カッチャンの遺児ザッカリー・K・タカヤスが人気音楽グループのリーダーとして紹介され、「雨の木(レイン・ツリー)」はセフィロトあるいはクリフォトという名の「生命の樹」としてイメージされる。
もう少しまとまったことを書こうと思って悪戦苦闘したのですが、力及ばず、でした。未整理な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
内容は平易でわかりやすい。小説の発端は、帰国した「僕」が、カルロスという男が癌に冒されたという噂を聞いて、衝撃を受ける場面である。カルロスは学院で事務をとるかたわら「僕」の通訳をしてくれたペルー人で、メキシコに亡命してきた日本文学の研究者だった。彼は研究者といっても、アカデミズムよりは作家個人のゴシップに関心をよせる人物で、何より肉体的な苦痛を恐れていた。もしも癌に冒されることになったら、苦痛のきわみで苦しむよりは首を吊って死にたい、と言っていたのである。
カルロスはまた、作家の「僕」に「首吊り」による自殺願望があることに関心を寄せていた。カルロスと「僕」は「首吊り」というキーワードでつながっていたのである。メキシコ・シティーを去るとき、「僕」はカルロスがHAIKUと呼ぶ次のような詩作を残したのだった。
Without you,
I would have hanged myself
Under a bougainvillaea shrub.
物語には、「僕」とカルロスを中心に、カルロスを脅かす彼の元妻セルラさん、大使館員を名告って「僕」の前に飄然と現れる山住さんが登場する。カルロスの共同研究者、というより実質的な研究はセルラさんが主体だったが、彼女は山住さんを使って「僕」を動かし、カルロスがセルラさんとよりを戻さなければ、亡命者の政治セクトに命を狙われる、と思い込ませようとしたのだ。だが、『僕」がカルロスとセルマさんの軋轢を心配している余裕はなくなった。日本に残してきた障害をもつ息子が、思春期の訪れにともなう失明、という事態に陥ったことがわかったのだ。
太平洋を越えてはるか彼方の日本からかかってきた国際電話で息子の失明を知らされて、「僕」は何もできない、しない、という「退行現象」に陥ってしまう。アパートの先住者が残していった「カラヴェーラ」と呼ばれる骸骨人形に囲まれて、マンゴーだけを食べながら外の世界と隔絶して、四日間ベッドに横たわったままだった。
「僕」と連絡がとれないのを不審に思った山住さんがアパートを訪れて、「僕」は現実に復帰したのだが、山住さんが仕切った酒宴の主人公に祭り上げられて正体もなく酔いつぶれてしまう。そればかりか、山住さんのトラブルに巻き込まれて黒服の日本人会社員の二人連れに痛めつけられ、挙句の果ては、いかがわしい曖昧宿に連れ込まれて、娼婦たちの嬲りものになる。
というドタバタが語られ、結局「僕」は任期半ばで日本に帰ることになる。帰国にあたって学院で開いてくれたパーティの席で、カルロスは「僕」にフィチヨル・インディアンのつむぎ糸絵画を贈ってくれた。それは絵画の中央に大きな木が描かれ、なおかつ登場する人物のひとりが首を吊っているように見えるものだった。「僕」はその絵を見て、描かれている木をみずからが「雨の木(レイン・ツリー)」と呼ぶ宇宙樹としてとらえ、このような木の下で、絵に描かれているのと同じように、生涯の師匠(パトロン)の立ち合いのもとに首を吊ることができたら幸せであろう、という感想を述べた。
それに呼応して、カルロスが言った言葉が前述のように、自分もまた同じようなことを考えている。肉体的な苦痛を何より嫌がる自分が、もし癌だとわかったら、インディアンから手にいれた、幸福感のうちに死にむかうことのできる薬草を噛んで、首を吊りたい。自殺を許さないカトリックの妻の監視を逃れて、首を吊るのによい木が生えているペルーまで同行してくれる人をさがしておきたい、というものだったのである。
以上のように、この小説はストーリーが分かりやすく、起承転結が整っていて、よくまとまった中編小説のようにみえる。ある種の要領の良さはあるが、軽薄で享楽的な美男のカルロスと、学究的な能力は高いが容貌の醜い先妻のセルマさん、カルロスのファンクラブだが故国の体制にはっきりと批判的な亡命者の女たち、プロフェソールと呼ばれながら、事あるとエキセントリックで幼児的な対応しかできない「僕」、「オペラで不吉な情報を伝えるために舞台にあらわれる密偵めいた役どころを連想させる」山住さん、など魅力的な人物が登場する。ストーリーの展開が面白いので、すらすら読めるのだが、最後までいって、はて、この小説は何だろう?と思ってしまう。何が腑に落ちないのだろうか、と考えてみると、「僕」がカルロスに揶揄されるほど一貫して「首を吊る」ことにこだわった理由が私にはわからないのだ。
敢えて乱暴な言い方をすれば、大江健三郎の文学のテーマは「首吊り」と「強姦」である。この二つのテーマのどちらかが取り上げられない作品はほとんどないのではないか。『万延元年のフットボール』のように、二つとも存在する作品ももちろんある。そして、とくに「首吊り」についていえば、作者の関心は、それを方法として選ぶ自殺の動機にあるのではなく、「首を吊る」という行為そのものにあるように思われる。強姦について、いま詳しく検討する余裕はないが、「不必要な強姦、あるいは不自然な強姦」がプロットの中に組み込まれることが多いように思われる。
私は、大江健三郎が一貫して「首吊り」にこだわる理由がわからないので、後年彼が「魂のこと」にこだわり「救い主」にこだわる理由もまたわからない。「魂のこと」は小説の主題たりえるだろうか。「救い主」もまた然り。その中間の「アンチ・キリスト」なら小説の主題たりえるように思う。素人の独断と偏見だけれど。
この小説は連作短篇集の中央に位置する作品だが、「雨の木(レインツリー)」は宇宙のメタファーというより、首吊りの木であり、前作との関連は薄いように思われる。前作に登場した高安カッチャンもペニーも登場しない。おそらくこれは、作者のメキシコ滞在の経験に基づく独立した短編(もしくは中編)を連作短篇集に組み込んだものではないか。だが、そのことが連作集にどのような意味をもつのかはよくわからない。次作「さかさまに立つ雨の木(レイン・ツリー)」には再びペニーが登場し、高保カッチャンの遺児ザッカリー・K・タカヤスが人気音楽グループのリーダーとして紹介され、「雨の木(レイン・ツリー)」はセフィロトあるいはクリフォトという名の「生命の樹」としてイメージされる。
もう少しまとまったことを書こうと思って悪戦苦闘したのですが、力及ばず、でした。未整理な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。