2016年6月23日木曜日

映画『静かな生活』伊丹十三と大江健三郎____『晩年様式集』読解の助走として

  『晩年様式集』についていつまでも考えている。

 『日常生活の冒険』の斎木犀吉、『懐かしい年への手紙』のギー兄さん、そして『取り換え子』から『晩年様式集』にいたるまでの塙吾郎、それらのモデルはあからさまに伊丹十三である。『晩年様式集』では、その三者をもう一度作品中に呼び戻し、しかもそれらの人物と長江古義人あるいはKちゃん、いや大江健三郎その人かもしれない人物との関係を「ちゃぶ台返し」にしているように見える。

 何故、3.11フクシマの後、この作品が書かれなければならなかったのか。大江健三郎はそれまで書いていた長編小説を中絶してこの小説にとりかかった、としている。3.11と『晩年様式集』との関係を探るために、ここでは、伊丹十三をモデルとする人物は作品中に登場せず、伊丹十三本人が監督、制作した映画『静かな生活』と、原作となった大江健三郎の短編集『静かな生活』を比べながら、「ちゃぶ台返し」の意味について考えてみたい。探索の手がかりをつかめる確信はないのだが。

 映画『静かな生活』は、原作の短編集をほぼ忠実になぞっているように見える。世界的に有名な作家の家族の物語である。作家の父が外国の大学に招かれ、母も同行する。脳に障害をもって生まれたイーヨーと姉のマーちゃん、弟のオーちゃんの三人が、子供たちだけで生活する。子供たちといっても、一番年下のオーちゃんが浪人生、という設定なので、イーヨーもマーちゃんもすでに成人である。

 小説も映画もイーヨーの性の目覚めが周囲に微妙な波紋を投げかけることから始まっている。性の目覚め、といっても、原作ではイーヨーは性的な話題から潔癖に遠ざかる人物として描かれ、もっぱら機能的に成熟した、というように記されている。それに対して映画では、原作にないお天気お姉さんが登場し、イーヨーは彼女にひそかに思いを寄せ、淡い失恋の痛みを味わうことを思わせる場面がある。

 映画と原作とのささいな差異は、そもそも、作家の父が招かれた大学が、原作では米カリフォルニアにあるのに対し、映画ではオーストラリアのシドニーとなっていることである。そんなに大した違いとは思われないが、なぜ、カリフォルニアではいけなかったのか。どちらも作家の「ピンチ」をのりこえるために必要な樹木のある避難場所とされているのだが。オーストラリアは、地図で見るとかたちが作家の郷里である四国に似ているからだろうか。

  それから、これも大した意味はないかもしれないが、子供たち三人が暮らす家が、映画では海が見える閑静な住宅街にある。原作は、はっきりと「成城学園前」と駅名を記しているが、「成城学園前」付近で海の見える場所はないだろう。小説もフィクションだが、映画はさらに小説をフィクショナイズしたものである、ということを象徴したのだろうか。

 映画の中で起こる出来事はおおむね原作と同じである。家に毎日水を届けに来る得体のしれない狂信者めいた男が、実は幼女を襲う連続事件の痴漢だったこと。幼女を襲っているのがイーヨーかもしれない、というマーちゃんの心配が杞憂だったこと。イーヨーが「すてご」というタイトルの曲をつくったことから、マーちゃんやKの親友でイーヨーの作曲の先生の「重藤さん」(これも映画ではなぜか「だんとうさん」となっている)が子供たちを置いて外国に行った作家のKに憤慨すること。

 その他、重藤さんの奥さんが、ポーランドの作家や詩人への弾圧に抗議するビラを来日したポーランド国家評議会議長のヤルゼンスキ氏に手渡そうとして、パニックに陥った警官に突きとばされれ、鎖骨を折る怪我をしたこと。ビラは、動けない奥さんのかわりに重藤さんとイーヨー、マーちゃん、オーちゃんの四人でレセプションのパーティ会場から退出する代表団の一行にもれなく配ったこと。満員電車の中でイーヨーが発作を起こし、女子中学生に「おちこぼれ」と罵られたこと、など。だが、ここでは、「すてご」というタイトルでイーヨーが作曲したことについて考えてみたい。

 イーヨーは、自分たち姉弟が両親から棄ててられた、という思いで「すてご」というタイトルをつけたのではなかった。マーちゃんや重藤さんはそう思ったのだが、福祉作業所の仲間が(映画ではイーヨー本人になっているが)公園清掃のとき棄てられた赤ん坊を見つけ、保護したことがイーヨーの記憶にあり、「すてごを救ける」曲をつくったのだった。その経緯を聞き出したのはイーヨーのお祖母ちゃんだった。四国の谷間の村でKちゃんの兄の葬儀があり、マーちゃんと一緒に参列したイーヨーはお祖母ちゃんとと作曲の話をしたのだ。

 この部分は原作をほぼ忠実に映像化している。お祖母ちゃんがイーヨーと話しているときに、マーちゃんはフサ叔母さん(Kちゃんの妹)から、Kちゃんが小さい頃、アシジのフランチェスコが水車小屋に現れて、すぐさま自分を連れていくのではないかと惧れた話を聞いているところも同じだ。だが、原作にあって、映画が省いたフサ叔母さんの一言が、映画と原作の決定的な違いを明らかにしている。「すてご」の由来を聞いてフサ叔母さんはこう言ったのだ。「もしこの惑星の人間みなが棄て子だったとすれば、イーヨーの作曲のあらわしているものは、なんだか壮大な規模だわねぇ!」

 映画にはイーヨー(本人)が棄て子を見つけ抱き上げているシーンがある。そのシーンの後にフサ叔母さんの前述のセリフがあったら、イーヨーは「この惑星の人間みな」を救う「壮大な規模」のヒーロー(もしくはアンチ・ヒーロー)になってしまう。伊丹十三はそういう「壮大な規模」の作品にしたくなかったのだ。

 連作短編集『静かな生活』の中で、作者の大江がかなりの頁をさいてこだわっているのが、「キリスト」、というよりむしろ「アンチ・キリスト」の問題である。映画『案内人(ストーカー)』(原作はストロガツスキー兄弟の『道傍のピクニック』)、エンデの『モモ』、『はてしない物語』、セリーヌの『リゴドン』、そしてブレイクの詩が縦横に引用される。『静かな生活』のテーマは、これ以降の作品で「魂のこと」として明確に主題としてあつかわれる「救い」__現実の日常生活の中で「救い」はどのようにもたらされるか、ではないだろうか。そして「救い」をもたらす存在は、決して誰の目にもそれとわかるヒーローではありえないということ。

 満員電車の中でイーヨーが発作を起こすシーンについていえば、映画では発作を起こしたイーヨーは一方的に庇われる存在として描かれているが、原作では、発作を起こして苦しみながらイーヨーは、マーちゃんを守ろうとして庇ったのだった。それから起こったマーちゃんの思いを大江健三郎はこのように書いている。

 そのうち、私の胸のなかに、___もしかしたらイーヨーはアンチ・キリストのように邪悪な力をひそめているかも知れない。たとえそうだったとしても、私はイーヨーについてどこまでも行こう、という不思議な決心が湧いてきたのだ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 それでも私の躰をつらぬいて光が放射されるように、続けて起こって来るのはあきらかに邪悪な強い歓喜で__私はこの世界の人間のうちもう兄と自分自身のことしか考えなかったから__ひとつ向こうのフォームから出ていく特急のレールの音にまじって、ベートーベンの第九とはくらべることもできないが、やはり一種の「歓喜の歌」が聞こえるのを、自分の頭のすぐ上にあるイーヨーのふっくらした耳と一緒に、私は勇気にあふれて受けとめるようであったのだ。

 これは明らかに、『燃え上がる緑の木』のサッチャンの原型だろう。

 後半イーヨーの水泳のコーチとして登場する新井君は、『雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち』中の「泳ぐ男___水のなかの雨の木(レイン・ツリー)」の玉利君だろう。保険金殺人で多額の金を手にした疑いをもたれている新井君がマーちゃんを強姦しようとする。原作はその行為を、慎重に、(あるいは巧妙に?)「どこか本気か冗談かわからない、それでいて・またはそれゆえに、過剰な露骨さに誇張されたものだった」とするが、映画では新井君はあきらかに「悪い人」である。新井君にいいように嬲られているマーちゃんをイーヨーが救う。

 映画ではイーヨーとマーちゃんが力を合わせて新井君をやっつける。新井君のマンションから裸足で飛び出したマーちゃんが土砂降りの雨のなかマンションの駐車場で泣き崩れ、イーヨーがマーちゃんを支えて抱擁する。そこへ新井君がマーちゃんの帽子やバッグ、靴などを持って現れ、それらを投げ出して駆け足で戻るのだ。アンチではなくて、颯爽としたヒーロー・イーヨーの誕生である。観客は「脳に障害をもちながらも」音楽の天分に恵まれ、悪漢新井君をやっつけるイーヨーと、イーヨーに助けられたマーちゃんに感情移入してカタルシスを味わう。折からオーストラリアの母から国際電話があって、「パパがピンチを乗り越えた」という報告を受ける。メデタシ、メデタシの予定調和の世界である。

 原作はもう少し複雑である。マーちゃんは一人でマンションから飛び出し、大声で泣いた後、イーヨーを凶暴な新井君のもとに置き去りにしてしまったことに気が付いて、水泳クラブのメンバーに助けを求めに戻る。「アンズのかたちの目をした」女の子と見まがうような顔の新井君は、「マーちゃんに近づくな」と警告した重藤さんに蹴りを入れて肋骨を折ってしまう(この部分は映画と原作は同じ)ほど、徹底的にやる人なのだ。ところがそこに、イーヨーが、マーちゃんの残した荷物と傘を持った新井君に「つきそわれて」歩いて来るのだ。「大丈夫ですか?マーちゃん!私は戦いました!」とマーちゃんに声をかけるイーヨーと新井君の間には微妙な親和性がほのめかされている。

 連作短編集『静かな生活』文庫版の解説を伊丹十三が『「静かな生活」映画化について』と題して書いている。「話すように書」いたこの文章は、自己嘲弄と韜晦に満ちていて、私にとって読むのがつらいものがあった。伊丹十三は何より大江の文学の深い理解者である。饒舌をよそおった書きぶりを裏切って誠実なメッセージが直につたわってくる。

 伊丹十三は、大江がこの作品以降テーマとする「魂のこと」としてこれを映画化しなかった。映画『静かな生活』のナラティブは映画の定型を敢えて外した、と伊丹十三は書いているが、立派に定型を完成している。「この世で一番美しい魂を持ったイーヨーと、一生イーヨーに寄り添って生きて行こうと決心した二人の波瀾万丈の体験の物語』として。「品が良くて、毒があって、美しくて、見終わったときに生きるための静かな力が湧いてくるような映画」__大衆に消費されるエンターテインメントとして十分である。原作にまったくない「お天気お姉さん」まで登場させるサービス精神だ。

 私は独断と偏見の持ち主だから山田洋二の「寅さんシリーズ」が大嫌いである。だが、映画『静かな生活』はそれよりも好きになれない。私は『静かな生活』以外の伊丹十三の映画を見たことがないのだが、いったい彼は監督として何がしたかったのか。
 
 ところで、DVDを何回か見直すうちに、この映画の登場人物は、痴漢騒ぎの野次馬のおじさんまでも、ほとんどチェックの服を着ていることに気づいた。マーちゃん、重藤さん、その奥さん、オーちゃん、パパも、タータンチェック、マドラスチェック、グレンチェック、ギンガム、ダイヤ柄など、さまざまなチェックが登場する。チェックを着ないのはママと新井君だけである。イーヨーは横縞を着ていることが多いが一回だけチェックの服を着て出てくることがあったと思う。服だけでなく帽子、バッグ、水着、カーテン、クッションまでもチェックである。なんとなく気分に触ってくるものがある。

 それから、これもささいなことなのだが、映画の中で市松模様(これもチェックの一種だろうが)が、奇妙なところに使われているのに気がついた。海が見える道路のガードレールと新井君のマンションの駐車場の舗装(?)である。ガードレールは水色と白で、マンションの駐車場は黒と白である。おそらく特殊撮影なのだろうが、なぜこんなところに市松模様を使うのか。

 というわけで『晩年様式集』読解の助走どころか、準備体操にもなっていないありさまです。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。