『水死』について、これ以上書くこともない、というか書けることもないのだが、一つだけ前回「ウナイコという戦略」で書き残したことを書いてみたい。『水死』のヒロイン、反・時代精神の女優ウナイコ「ウナイコ」が「ウナイコ」と呼ばれるようになったくだりで引用される古歌の解釈の問題である。
郭公(ほととぎす)をちかへり鳴けうなゐこが打ち垂れ髪のさみだれの空
平安初期の三十六歌仙と呼ばれる凡河内躬恒の作。躬恒は古今集の撰者であるが、これは拾遺集に採られている。ホトトギスは、「時鳥」と書いて田植えの時を告げる鳥といわれる。梅雨の季節の到来に、今こそ鳴いて田の事を始めさせよ、の意だが、現代の語感では「をちかへり」がなかなか難解である。
折口信夫は「若水の話」という論文の中で「をつ」について述べている。「をつ」は沖縄の言葉「すでる」と同意義であって、「すでる」が動物の変態をいう言葉だとする。蝶や鳥、蛇など胎生でない動物がいったん死んだようになって、姿を変えて活動を始める、その様子が「すでる」_「をつ」だという。古代の人はそこに「死と再生」をみた。「をつ」に「変若」という漢字をあてている論文もあったと思う。
とすれば「郭公(ほととぎす)をちかへり鳴け」は死した郭公(ほととぎす)に生き返って鳴け、と呼ばわっているのではないか。もともと「ほととぎす」には中国の故事成語から「社宇」「蜀魂」「不如帰」などの漢字があてられることが多い。そこには田事と同時に死と再生、あるいは死者への招魂のイメージがつきまとう。大江健三郎は、その「ほととぎす」に「郭公_かっこう」の漢字を振って、「吾子、吾子」の鳴き声を連想させる。そこから「うなゐこが打ち垂れ髪の」につながっていくのだろうが、この「うなゐこが打ち垂れ髪の」がまた厄介なのだ。
「うなゐこ」が少女をいうことは確かだろうが、「うなゐ」とはどんな髪型だろう。髪をうなゐ_首すじのあたりで切ったものか、それとも首の後ろで結んだのか。大江は『水死』の作中では、首の後ろで結んだものとして書いているが、そうすると、「うなゐこが打ち垂れ髪の」がよくわからない。おそらくこの古歌では、切り下げ髪の少女をいっているのだろう。いずれにしろ「うなゐこが打ち垂れ髪の」は「さみだれの空」に懸かる序詞で意味は問わない、といえばそれまでだが、「ほととぎすをちかへり鳴け」が「うなゐこが打ち垂れ髪の」と呼応すると、死と再生、夭折した少女、のイメージが立ち昇るのだ。
そうして、もうひとつ事を複雑にするのが、「うない」という言葉に、厳密にいえば表記は異なるが、「うなひおとめ_兎原乙女」を連想してしまうことである。「兎原乙女」は「真間の手児奈」と同じく各地にある処女塚伝説のヒロインである。美しい娘が二人の男に求愛され、どちらにも身をまかすことなく死んでしまう。処女塚伝説の系譜は大和物語から世阿弥の謡曲をへて、森鴎外の戯曲『生田川』まで続く。ここでも、「うなひおとめ」は夭折した_成女とならないで死んだ人間のイメージ、というより死者そのものなのである。
「郭公(ほととぎす)をちかへり鳴け・・・・」の歌は複雑、重層的なイメージを喚起する。古義人の母が、孫の髪型に目をとめ、それからこの古歌に言及した、とする大江の記述は奥が深い。
横道にそれるが、いままで私は大江の日本文学の古典に対する態度にうなづけないものがあった。和泉式部を「足の指が奇形でそのために特殊な足袋を履いていた」という伝承の主として紹介している記述を読んで、怒髪天を突いたことがあった。和泉式部こそは、平安朝といわず日本文学史上の最高の歌人、といってもよい、と私は評価している。高校時代に教科書に載っていた
性空上人のもとへ、詠みて遣わしける
暗きより暗き道にぞ入りぬべき はるかに照らせ山の端の月
という歌に出会ったときの衝撃はい今も忘れられない。和泉式部奇形伝説はどこの地方に存在するのか、大江に問い糾したい気持ちであった。
「うなゐ」も「うなひ」も現代語表記では「うない_ウナイ」となるのも大江の戦略だったのだろうか。それともたんに私が深読みをしているだけなのだろうか。ともあれ、私自身が一度古典のおさらいをしてみたかったこともあって、「をちかへり」と「うない」について考えてみた。
折口を読んで半世紀近く経つのに、昔と同じく悪戦苦闘しています。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。