もう一ヶ月近く読んでいるのに、「バーント・ノートン」と『さようなら、私の本よ!』について書くことができない。とにかく、わからないのだ。わからないことが二つあって、一つは、「バーント・ノートン」を含む『四つの四重奏』という詩集自体が難解であるということであり、もう一つは大江健三郎はどのような目的でエリオットを引用したのか、ということである。『さようなら、私の本よ!』という作品の流れの中に置かれるエリオットの詩の断片は、その部分だけ読むと実に自然な作中人物の心情の吐露であるが、それに納得してしまってよいのか。前回とりあげた「ゲロンチョン」の舞台となる家は「若い作家が夢みるような山荘」とはまちがってもいえないのである。
「バーント・ノートン」は『四つの四重奏』の第一番目の詩である。題名となったBurnt Norton とは「燃えたノートン邸」であるが「燃えたノートン」でもある。館の主人が発狂して放火し、みずからも焼け死んだという。エリオットはエミリーという女友だちとともに、いまは薔薇の生い茂るこの廃園を訪れ、非常なインスピレーションを受けた。『さようなら、私の本よ!』の中では、伊丹十三がモデルと思われる塙吾良が感動し、映画化を構想した、という部分が引用される。
そして池は日光のためにできた幻の水で溢れていた
すると蓮は静かに 静かに浮かび上った
水面は光の中心となってきらめいた
そして彼らはわれわれの後にいた 池に反射しながら
やがて一片の雲が過ぎた 池はからっぽになった
行け と小鳥がいった 葉の茂みは子供たちでいっぱいだから
感動しながら隠れ 笑いを殺している
日常の中に示現した一瞬の永遠。刹那の至福。甘美で口あたりのよいイメージが喚起される。だが、「バーント・ノートン」の世界はそんなに一筋縄ではいかないものがある。
Time present and time past
Are both perhaps present in time future,
And time future contained in time past.
「バーント・ノートン」の冒頭 は「時」についての抽象的思弁的な議論である。現在と過去は未来の中に存在し、未来は過去に含まれる。これは輪廻の時間論のように思われるが、永劫の輪廻が止揚される一点がある。
What might have been and what has been
Point to one end, which is always present.
永遠の現在あるいは永遠に現存する一瞬、それがどのようなものであり、どのようにしてもたらされるか、「バーント・ノートン」という詩は精細にそれを語り、読者をそこに導こうとする。薔薇園での甘美な回想の後、2番目のスタンザは次のように始まる。
Garlic and sapphires in the mud
Clot the bedded axle-tree.
The trilling wire in the blood
Sings below inveterate scars,
Appeasing long forgotten wars.
泥の中の大蒜とサファイアが埋もれた車軸にこびりつき、血の中で震える弦は根深い傷跡の下で唄い、永く忘れられた戦争を宥める___非常に難解だが、それゆえに(私にとっては)薔薇園の回想よりさらに魅力的な始まりである。long forgotten warsとは何を指すのか。この後さらに
The dance along artery
The circulation of the lymph
と血なまぐさいイメージが続くが、ここで一気に転換して
Are figured in the drift of stars
Ascend to summer in the tree.
視点は上昇し、樹上の高みから俯瞰する構図となる。最初のスタンザでone end と呼ばれた一瞬はここではthe still point と呼ばれ、それがどのようなものかが言葉をつくして語られる。それには
At the still point of turning world. Neither flesh nor
Fleshless;
Neither from nor towards; at the still point ,there the dance is
But neither arrest nor movement. And do not call it fixty.
矛盾する事柄を繋ぎ合わせる撞着語法やパラドックスという手法が頻繁に使われる。要するに現実の日常ではありえないことなのだ。だから、この詩は日常を止揚する地点に読者を導こうとする説教詩、といってしまってもよいのかもしれない。
Here is a place of disaffection
と始まる第三連では、現実の地上がいかにそれとかけ離れているかを描写していく。
Time before and time after
In a dim light : neither daylight
Investing form with lucid stillness
・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
Nor darkness to purify the soul
ここでは「時」はtime before and tme after と何事かの_たぶんthe still point の「前後」となっている。それは虚ろな光。光に満ちた静けさをかたちにする昼間の光でもなく、魂を純化する暗闇でもない。the still point に到達するために、詩人は下降を要求する。
Descend lower, descend only
Into the world of perpetual solitude
そして最後のスタンザで最初の薔薇園の回想にもどって茫漠とひろがる現在の無意味を嘆く。見事な起承転結だが、それで終わっては「陰謀論で読む」にはほど遠いので、短く挿まれた第四連をとくに時制に注目して読んでみたい。
Time and the bell have buried the day.
The blcack cloud carries the sun away.
Will the sunflower turn to us,will the clematis
Stray down , bent to us; tendril and spray
Cluch and cling?
Chill
Fingers of yew be curld
Down on us? After the kingfisher’s wing
Has answered light to light, and is silent, the light is still
At the still point of the turning world.
「時と鐘がその日を葬り、黒い雲が太陽を運び去る」__たんに一日が晩鐘とともに暮れた、ということではなく、the day とあるので、特定の日に起こった事柄をいっているのだろう。have buried すでに葬られた事実は完了している。黒い雲が太陽を運び去るのは永遠の真理をいう現在形。「ひまわりは私たちの方に向いてくれるだろうか、クレマチスは俯いて私たちの方に身を屈め、巻きひげと小枝でからみついてつかむだろうか」__ひまわりとクレマチスは何のメタファーなのか?the sunflower the clematis とあるのでこれも特定のひまわりとクレマチスである。暗黒の世界から私たちを救い出す存在なのか?これはwillではじまる未来形。実現するかどうかは the sunflowerとthe clematisの意志にかかっている。おそろしいのは次の一語だ。
Chill
「冷たい」あるいは「凍える」と訳し形容詞としてFingerにかかるとするのが文法的に正しいのだろうが、「殺す」という意味もある。一行の先頭にぽつんと一語だけ置かれているのが目をひく。「イチイの指が私たちのほうに曲がって下りてきたら?」これは仮定法現在。願望なのか危惧なのか。「かわせみの翼が光に応答し、そして静寂。」光の応答はすでに起こった(現在完了形)が、静寂は続く。その光はいまだある。廻る世界の静止の点に。静寂と光は現在形。絶対の現在。
これは黙示録的現在であり、同じく未来であり、また過去の光景なのだろう。同時に歴史的現実であり、過去であり未来だろう。「時」についての抽象的な議論のように見えた冒頭の三行はまさにこのスタンザと対応しているのではないか。
「バーント・ノートン」は甘美な追想の詩でないのはいうまでもないが、抽象的、宗教的な思弁を展開しただけのものでもない。最初に引用した薔薇園の部分も作中塙吾良監督がいうように、そのシーンを撮っていれば「そのすべてを現在の時として感受している、つまり、いまよりもっと良い生き方をしているおれ自身もしっかり撮れているはずなんだ!」と手放しで賛美する対象だとは思えないのである。
薔薇園の子供たちは「バーント・ノートン」の最後にも登場する。
Sudden in a shaft of sunlight
Even while the dust moves
There rises the hidden laughter
of children in the foliage
Quick now, here, now,always
Ridiculous the waste sad time
Stretching before and after.
突然一筋の陽光が射し、塵が舞う最中にたちのぼる子供たちの笑いとは何か。「いますぐに、さあいま、いつでも」と何を促しているのか。塙吾良のいう「いまよりもっと良い生き方をしているおれ自身」とはどんな「おれ自身」なのだろう。それはエリオットが執拗にうながす回心と同じベクトルのものだろうか。
またまた陰謀論にならず、試行錯誤の英文解釈でした。このペースでやっていると、今年中に「エリオットを読む」を卒業出来るかどうかわからなくなってきたので、次は作品そのものに戻ってもう少し考えたいと思っています。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。