名前だけ聞いて頭の上を通りすぎる存在だったエリオットについて調べていて、なんとも複雑な思いをかみしめている。ヨーロッパにおける、というより近、現代史の時間、空間のなかで、「ユダヤ」もしくは「ユダヤ人」という存在がどのような意味をもってきたか、あるいはもたされてきたか、という問題をあらためてつきつけられたように思う。もちろんそれは今につながるものだ。エリオットは、同志とされるエズラ.パウンドほどではないにしろ、「反ユダヤ主義」と批判される時期があったのだ。「ゲロンチョン」に登場するユダヤ人の大家の描写はあきらかに偏見と侮蔑に満ちている。だが、いまはエリオットの「反ユダヤ主義」を論考するつもりはない。問題としたいのは、なぜ大江健三郎がエリオットに、そして「ゲロンチョン」という詩にこだわったのかということである。少し詳しく「ゲロンチョン」の内容を検討してみたい。
Here I am, an old man in a dry month,
Being read to by a boy, waiting for rain
I was neither at the hot gates
Nor fought in the warm rain
Bitten by flies, fought.
My house is a decayed house,
And the Jew sqqarts in the window sill, the owner,
Spawned in some estaminet of Antwerp,
Blistered in Brussels, patched and peeled in London.
The goat coughs at night in the field overhead;
Rocks, moss, stonecrop, iron, merds.
The woman keeps the kitchen, makes tea,
Sneezes at evening, poking the peevish gutter.
I an old man
A dull head among windy spaces.
本文では深瀬基寛の訳で
まかりいでましたこちらは雨なき月の老いの身
童にもの讀ませつゝ、雨の降るのを待ってます。
われひとたびも激しき戰ひの城門にたちしことなく
はた降りしきる雨を浴び
鹽澤に膝ひたし、だんびら刀振りかぶり
ぶとにまれて戰ひしことさらにない。
わたしの家は、ぼろ家です、
と、六行目までがまず引用される。ここまでは芝居気たっぷりに登場したan old manの自己紹介である。問題は、作者大江が、たぶん意図的に省略した7行目以下である。
And the Jew squarts in the window sill, the owner,(初版ではthe jewと小文字)
窓べりに蹲るユダヤ人が大家として登場し、その人物がアントワープで生まれ、ブリュッセルで疱やみになり、ロンドンで絆創膏をあて、皮を剥がした、となんともいかがわしい経歴が語られる。さらに、深夜に咳をする山羊と、くしゃみをしながら台所仕事をする女が現れ、屋外の描写がそれにはさまれる。in the field over head , Rocks, moss, stonecrops, iron, merds とあるのはたんに荒涼とした原野、ではなく戦場の光景であろう。
ところで、一つの、根本的な疑問がある。an old man は大家のユダヤ人であるのか?それとも店子の一人なのか?作者の大江はどのように解釈しているのか。私は、エリオットがみずからをユダヤ人と同化してこの詩を作ったとは思えないので、店子の一人、舞台に登場する狂言回しの役だと考える。この詩の六連目にも
The tiger springs in the new year.…when I
Stiffen in a rennted house
とあるのだ。(下線部筆者)ところが、作中の繁は、繁と塙吾良は、ふたりそれぞれに、ユダヤ人の大家とゲロンチョンと呼ばれる老人を同一人物として捉え、その姿によりそって自分たちの老後を語ったと言う。では、古義人自身はどうなのか。ここには、非常に重要な問題が曖昧なままにされている。
この後は
Signs are taken for wonders. ‘We would see a sign!’
The word within a word,unable to speak a word,
Swaddled with darkness. In juvescence of the year
Came Christ the tiger
と、宗教的な啓示の言葉が綴られる。そして
In depraved May, dogwood and chestnut, floweringjudas,
To be eaten, to be divided, to be drunk
Among whispers; by Mr.Silvero
With caressing hands, At Limoges
Who walked all night in the next room;
By Hakagawa,bowing among the Titians;
By Madame de Tornquist, in the dark room
Shifting the candles; Fraulein von Kulp
Who turned in the hall, one hand on the door.
Vacant shuttles
Weave the wind , I have no ghost,
An old man in a draughty house
Under a windy Knob.
と、室内の様子が描写される。日、仏、独(?)の国際色豊かな店子が住んでいるようだが、日本人らしきハカガワという人物だけ敬称がつかず、ティティアーノの絵にお辞儀をしている、と戯画的に描かれているのが興味深い。それぞれがあい集うことなく、「空のシャトルが風を織る」と結ばれているのは、紡ぎだす糸のない不毛の状況の隠喩だろうか。
以下
After such knowledge, what forgiveness? Think now
History has many cunning passages,contrived corridors
And issues,decieves with whispering ambitions,
Guides us by vanities.…
と、an old man _エリオットの歴史哲学が語られる。しかし After such knowledge, what forgiveness?
とはどんな知識、いかなる赦しを指すのか。この詩に書かれた光景から、私達は何を読み取ればいいのだろう。というより古義人は、十九歳の冬に大学の書店で買ったときから今にいたるまで、この詩の何に深く影響されてきたのか。作中二度にわたって引用される
Neither fear nor courage saves us.
恐怖もまた勇気もわれらを救わざることを。
の節とそれに続く Unnatural vices
Are fathered by our heroism. Virtues
Are forced upon us by our impudent crimes.
These tears are shaken from the wrath-bearing tree.
自然に背く惡徳は
われらのヘロイズムにより産み出さる。諸々の美徳も
われらの犯す厚顔の罪によりわれらに強要せらる。
みよこの涙、悲憤の實る樹上よりはふり落つるを。
という箴言だろうか。
これらの箴言が、繁のいうように、古義人の「政治的あるいは社会的な考え方、あえていえば思想」にたいして影響を与えたのはたしかだろう。だが、より本質的なことは、古義人にとって、この詩が「予言的な恐ろしい力」をもつことだったのではないか。
「ゲロンチョン」の最後のスタンザに
What will the spider do
Suspend its operations, will the weevil
Dlay? De Bailhache, Fresca, Mrs.Cammel, whirled
Beyond the circuit of the shudering Bear
In fractured atoms.
とあるのはどういうことだろう。the spider 、 the weevil と定冠詞のついた「蜘蛛」と「ゾウムシ」とは何を指すのか。また「震える熊座の向こう側で、破砕された原子の中をぐるぐる回る」三人とは何のことなのか。この詩が書かれた二十世紀初頭、フクシマはいうに及ばず、ヒロシマ、ナガサキも予兆だになかったのに。
「陰謀論で読む」といいながら、またまたただの英文解釈以下になってしまいました。懲りないことに、「バーントノートン」と「イーストコーカー」にも挑戦してみたいと思っています。そして、作中執拗に言及される「ミシマ」についても考えなければならない。まったくの独断と偏見ですが、三島由紀夫は「天皇」を考えていた。それにたいして大江健三郎は「天皇制」を考えていたのではないか、とも思うのですが。
今日も拙い文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
2015年4月25日土曜日
2015年4月16日木曜日
陰謀論で読む大江健三郎『さようなら、私の本よ!』___T・S・エリオットを中心に
もう2ヶ月以上も経つのに、『さようなら、私の本よ!』について書けない。体力の衰えなのか、はたまた能力の限界なのか。それで、半ばやけのやんぱちで、アカデミズムの権化みたいな大江健三郎を陰謀論風に読んでみた。妄想『さようなら、私の本よ!』である。
そもそもこの小説は9.11の世界貿易センターの崩壊に立ち会った(そして体調を悪くした?)アメリカ国籍の建築家椿繁と、彼の幼ななじみ(かつ異父弟?)の長江古義人の冒険譚なのである。
経済的な問題から、古義人は「北軽」の大学村のはずれに建てた二棟の別荘のうち「小さな老人(ゲロンチョンと表記される)の家」を残して、もう一棟の「おかしな老人の家」と敷地全部を「小さな老人(ゲロンチョン)の家」を設計した繁に売ることになる。「小さな老人の家」とは、古義人が若い頃夢みた山荘のイメージがT・S・エリオットの同題の詩にある家だったことから名づけられた。古義人と繁はそれこそスープの冷めない距離に住んで、つかずはなれずの関係になるのだが、二棟の家に住むことになるのは、この二人だけではなかった。繁は、「ウラジミール」と「清清」という彼の教え子であり、また「ジュネーヴ」という隠語で呼ばれる組織から指令を受ける「同志」との「根拠地」として不動産を買ったのである。
「ジュネーヴ」からの指令、というより繁が「ジュネーヴ」に提案したのは、東京の高層ビルを爆破する計画である。そして古義人の役割はその計画の実行寸前に彼がNHKに出向いて計画を告げ、人々を避難させる、というものだったのだが、「ジュネーヴ」はこれを却下した。時期尚早とされたのだ。繁は爆破_unbuildと表記される_をより小さな規模にしてビルの一室で行うことにするが、古義人は自分の「小さな老人(ゲロンチョン)の家」をその実行場所に提供する。爆破は成功するが、その記録をビデオで残そうとした実行犯の若者のうち一人が爆破の際に「鉄パイプに片目を貫通される」事故で死んでしまう。
あらすじとしてはこれだけで、いままでの大江健三郎の作品に比べれば単純、と言ってよいもののように思われるが、これに組み込まれるプロットあるいはモチーフは例によって豊富である。全体のプロットは、作品中にもまとまって引用されるドストエフスキーの『悪霊』である。登場人物がそれぞれ自分の好きな、またはそれを自分になぞらえうるような『悪霊』中の人物をあげている。爆破の実行犯で死んでしまう「タケチャン」は自殺するキリーロフ、生き延びて潜伏するもう一人の実行犯の武は首謀者ピョートルに殺されるシャートフ、そして、古義人はピョートルの父無能なステパン氏が好きだと言う。古義人と武、タケチャンの三人が会話して、戦後民主主義、悔い改めたブタ、といったテーマを話し合う場面があって、そこで展開される議論はそれなりに興味深いものがあるのだが、問題はむしろ、爆破を計画する繁がこの場面に登場せず、彼の役割があきらかにされていないことではないか。
繁と古義人の関係は、最後まで真相がわからない。いえることは、二人はペアであり、ツインであるということだ。作品中では「ロバンソン小説」なるものの構想を古義人が昔からもっていたとされ、セリーヌ『夜の果てへの旅』のあらすじが紹介される。『夜の果てへの旅』の主人公バルダミュとロバンソンの関係が古義人と繁のそれに重ね合わされるのだろう。バルダミュとロバンソンについて、「自分でも忘れるほど前から、古義人はpseudo-coupleということを考え」ていた、と書かれているのだが、pseudoは辞書を引くと「偽りの」という日本語があてられている。繁と古義人、バルダミュとロバンソン、そしてまたウラジミールと清清、武とタケチャンもカップルであり、さらには清清とネイオもそう呼ぶことが出来ると思うが、彼らを「偽りの」カップルと呼んでいいのだろうか。大江健三郎は、小説の中で外国語をそのまま、或いは翻訳して日本語におきかえるとき、微妙に意味をズラすことがあるように思う。たとえば、『宙返り』の中で主人公を「師匠」と呼んでパトロン」とルビをふったように。そしてそのズレは確信犯的、戦略的なものであると考えている。
ズレといえば、作中頻繁に引用され重要なモチーフとなる「小さな老人の家」_ゲロンチョンというエリオットの詩についても、非常に微妙な、巧緻な仕掛けが施されているように思われるのだが、長くなるので、それについては次回で考えたい。いまは、そもそも、自宅のある成城でも故郷の谷間の村でもなく、「北軽」という別荘地_ある種の租界_で、同一の敷地に建つ「小さな老人の家」と「おかしな老人の家」の二つの建物のうち一棟が爆破されるというプロットが指し示すものは何かという問題を提起したい。いうまでもなくこの小説は9・11の後書かれたものである。また、その実行犯はともかく、誰がこれを指示したか、ということも。次回では、ゲロンチョンを中心にエリオットの詩を読みながらそのことについてささやかな検討をしてみたいと思う。「ゲロンチョン」という詩は、決して「若い作家が夢みる」ような山荘を描いたものではないのである。
「陰謀論で読む」といいながら、まったく陰謀論になっていないのですが、次回は付け焼刃の英文学の勉強をしながらエリオットの詩に挑戦したいと思います。(できるでしょうか)今日も未整理な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
そもそもこの小説は9.11の世界貿易センターの崩壊に立ち会った(そして体調を悪くした?)アメリカ国籍の建築家椿繁と、彼の幼ななじみ(かつ異父弟?)の長江古義人の冒険譚なのである。
経済的な問題から、古義人は「北軽」の大学村のはずれに建てた二棟の別荘のうち「小さな老人(ゲロンチョンと表記される)の家」を残して、もう一棟の「おかしな老人の家」と敷地全部を「小さな老人(ゲロンチョン)の家」を設計した繁に売ることになる。「小さな老人の家」とは、古義人が若い頃夢みた山荘のイメージがT・S・エリオットの同題の詩にある家だったことから名づけられた。古義人と繁はそれこそスープの冷めない距離に住んで、つかずはなれずの関係になるのだが、二棟の家に住むことになるのは、この二人だけではなかった。繁は、「ウラジミール」と「清清」という彼の教え子であり、また「ジュネーヴ」という隠語で呼ばれる組織から指令を受ける「同志」との「根拠地」として不動産を買ったのである。
「ジュネーヴ」からの指令、というより繁が「ジュネーヴ」に提案したのは、東京の高層ビルを爆破する計画である。そして古義人の役割はその計画の実行寸前に彼がNHKに出向いて計画を告げ、人々を避難させる、というものだったのだが、「ジュネーヴ」はこれを却下した。時期尚早とされたのだ。繁は爆破_unbuildと表記される_をより小さな規模にしてビルの一室で行うことにするが、古義人は自分の「小さな老人(ゲロンチョン)の家」をその実行場所に提供する。爆破は成功するが、その記録をビデオで残そうとした実行犯の若者のうち一人が爆破の際に「鉄パイプに片目を貫通される」事故で死んでしまう。
あらすじとしてはこれだけで、いままでの大江健三郎の作品に比べれば単純、と言ってよいもののように思われるが、これに組み込まれるプロットあるいはモチーフは例によって豊富である。全体のプロットは、作品中にもまとまって引用されるドストエフスキーの『悪霊』である。登場人物がそれぞれ自分の好きな、またはそれを自分になぞらえうるような『悪霊』中の人物をあげている。爆破の実行犯で死んでしまう「タケチャン」は自殺するキリーロフ、生き延びて潜伏するもう一人の実行犯の武は首謀者ピョートルに殺されるシャートフ、そして、古義人はピョートルの父無能なステパン氏が好きだと言う。古義人と武、タケチャンの三人が会話して、戦後民主主義、悔い改めたブタ、といったテーマを話し合う場面があって、そこで展開される議論はそれなりに興味深いものがあるのだが、問題はむしろ、爆破を計画する繁がこの場面に登場せず、彼の役割があきらかにされていないことではないか。
繁と古義人の関係は、最後まで真相がわからない。いえることは、二人はペアであり、ツインであるということだ。作品中では「ロバンソン小説」なるものの構想を古義人が昔からもっていたとされ、セリーヌ『夜の果てへの旅』のあらすじが紹介される。『夜の果てへの旅』の主人公バルダミュとロバンソンの関係が古義人と繁のそれに重ね合わされるのだろう。バルダミュとロバンソンについて、「自分でも忘れるほど前から、古義人はpseudo-coupleということを考え」ていた、と書かれているのだが、pseudoは辞書を引くと「偽りの」という日本語があてられている。繁と古義人、バルダミュとロバンソン、そしてまたウラジミールと清清、武とタケチャンもカップルであり、さらには清清とネイオもそう呼ぶことが出来ると思うが、彼らを「偽りの」カップルと呼んでいいのだろうか。大江健三郎は、小説の中で外国語をそのまま、或いは翻訳して日本語におきかえるとき、微妙に意味をズラすことがあるように思う。たとえば、『宙返り』の中で主人公を「師匠」と呼んでパトロン」とルビをふったように。そしてそのズレは確信犯的、戦略的なものであると考えている。
ズレといえば、作中頻繁に引用され重要なモチーフとなる「小さな老人の家」_ゲロンチョンというエリオットの詩についても、非常に微妙な、巧緻な仕掛けが施されているように思われるのだが、長くなるので、それについては次回で考えたい。いまは、そもそも、自宅のある成城でも故郷の谷間の村でもなく、「北軽」という別荘地_ある種の租界_で、同一の敷地に建つ「小さな老人の家」と「おかしな老人の家」の二つの建物のうち一棟が爆破されるというプロットが指し示すものは何かという問題を提起したい。いうまでもなくこの小説は9・11の後書かれたものである。また、その実行犯はともかく、誰がこれを指示したか、ということも。次回では、ゲロンチョンを中心にエリオットの詩を読みながらそのことについてささやかな検討をしてみたいと思う。「ゲロンチョン」という詩は、決して「若い作家が夢みる」ような山荘を描いたものではないのである。
「陰謀論で読む」といいながら、まったく陰謀論になっていないのですが、次回は付け焼刃の英文学の勉強をしながらエリオットの詩に挑戦したいと思います。(できるでしょうか)今日も未整理な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。