2013年5月20日月曜日

『万延元年のフットボール』____「森」はどこにあるのか

 大江健三郎の文学を語るとき、「森の思想」あるいは「神話の森」という言葉を目にすることが多い。作者の生まれ育った故郷が作品世界の中に登場する「森」とかさなってイメージされるので、谷間を流れる川のすぐ隣に豊かな森林があるように誰もが想像するのではないだろうか。だが、地図をひらけばわかるように、日本の国土は折口信夫のいう「海やまのあひだ」のきわめて狭量な地域なのである。四国だけでなく、「森」という言葉から連想されるような、なだらかな平原に木々が群生する空間は北海道をのぞいて、ほとんど存在しない。「谷間の村」を囲む「森」は実際は「やま」と表現されるのがふさわしいのではないだろうか。「やまの思想」「神話のやま」ではいけなかったのだろうか。

 『万延元年のフットボール』の森の風景は、まず、「獣のごときもの」と書かれる子供が排泄している光景とともに記述される。林道の両側に暗く茂った常緑樹がせまる中、若い農婦と子供と彼の黄色い排泄物の堆積が克明に描写される。やがてバスに乗り込んできた子供の剃りあげた頭を見た僕の妻は、自分たちが施設にあずけた赤ん坊の頭の瘤を連想して平静さを失ってしまう。僕と妻は逃れるようにバスを降りるのだが、森は人間に親和的な表情を見せることはない。僕は「めざましい朱色のヤモリの腹みたいな地肌」をあらわした赭土にさえ脅かされるように思うのだ。

 露悪的なほど生々しく描写される「森」の様子は、どう考えても「森」ではなく「やま」のように思われる。だが「高台」「窪地」「谷間」という地形を示す言葉は頻繁にでてくるが、「やま」という言葉をこの作品に見出すことはできなかった。「谷間の村」を囲む自然は実際には「やま_山」もしくは「山林」と呼ぶべきなのだろうが、作者はかたくななまでに「森」と呼ぶのである。さらに、戦争中に徴兵を忌避して逃亡した男を「森」の隠遁者ギーと名づけ、ある種のアンチ・ヒーローとして登場させる。「山の隠遁者」と呼ばないのは、「山の隠遁者」では中世から連綿と連なる「世捨て人」の系譜に数えられてしまうからだろうか。世捨て人には変わりないのだろうが。

 「森の隠遁者ギー」は、この後書かれる短編「核時代の森の隠遁者」の中で、荒野に呼ばわる預言者ヨハネのごとく「核時代を生き延びようとする者は/ 森の力に同化すべく ありとある市/ ありとある村を逃れて 森に隠遁せよ!」と叫んで壮絶な死を遂げる。続いて、「森の隠遁者」と入れ替わって「山の人」という言葉が「狩猟で暮らしたわれらの先祖」という短編の中に出てくる。それは非常に重要な言葉として括弧でくくられている。この短編には「みじめな獣」を追って放浪の生活をしているという一家が登場し、「山の人」と呼ばれる。犯罪の匂いが付きまとう彼らは、語り手の暮らすプチ・ブル的な住宅街に入り込んで、波紋をまき起こす。語り手の僕は何故かその「山の人」に脅えるのである。「山の人」と「森の隠遁者」とは対極の位置にあるようだ。

 さて、バスを降りた僕と妻はジープを駆使して迎えに来た鷹四と出会う。「やぁ、菜採っちゃん」「ありがとう鷹」と挨拶を交わした三人は「森と谷間の中間にある」生家に向かうが、ジープに乗り込む前に僕は妻を誘って「谷間の人間が森全体でいっとう旨い水だという湧き水」を飲む。水は二十年前の子供の頃と同じ水として湧き出ているが、僕は子供のときの自分との同一性も連続性も喪って、水に峻拒されていると感じてしまう。かつて祖先たちを「チョウソカベ」から守り、谷間に定着の場を設けることを可能にした森は、いま「猜疑心とともに僕を看視している」のだ。森は意思をもつのか?

 『万延元年のフットボール』の主人公は鷹四と蜜三郎と、そして「森」だろう。「森_もり_mori」という言葉の意味する者は何か。民俗学にもエコロジーにも還元できない、きわめて抽象的でありながら、同時にきわめて具体的な内容をもつ何かが「森」という言葉に託されているように思われる。

 まだまだ読み込みが足りないので、備忘録にもならないのですが、今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2013年5月7日火曜日

『万延元年のフットボール』_______「谷間の村」とスーパー・マーケットの天皇

 『万延元年のフットボール』には、読む側の想像力を刺激する神話的イメージがちりばめられている。前回私は「根所蜜三郎」というネーミングに「乳と蜜の流れる地_カナン」を連想したのだが、同時に「根」の「所」から地下=冥界を連想することも可能であり、そのような両義性はこの作品のいたるところにしかけられているように思う。だが、いまはどこまでも想像力を刺激する豊かな神話的イメージをあえて消し去って、「作品が記述している歴史」をたどってみたい。

 「作品が記述している歴史」としてもっとも古いのは、いうまでもなく題名となった「万延元年」の一揆である。苛斂誅求に耐えかねた谷間の百姓が、藩主に代わって金を貸し出し、百姓を救済しようとした庄屋=根所家を襲って、暴力と略奪を恣にしながら、城下町に繰り出して行った。しかも、先頭に立って「頭取」と呼ばれ一揆をリードしていたのは、庄屋=根所家の弟であった。次に記されるのは、敗戦下に起こった朝鮮部落の襲撃事件である。谷間の村の百姓が、自分たちが隠匿していた米を略奪し闇米にして売っていた朝鮮部落を襲って死者まで出した事件と、それに対する朝鮮人たちの報復戦争とも言うべき事件である。そのどちらにも警察が介入することはなかった。S兄さんと呼ばれる根所家の三男は二回目の事件のとき撲殺された。そして、最後に蜜三郎の弟鷹四が企てたスーパー・マーケットの略奪の有様が記される。

 それぞれの「歴史の解釈」は、歴史を語る人たちの立場と思いによって異なっている。狂気の人とされる蜜三郎の母親は、万延元年の一揆で、倉屋敷に籠もって銃を持ってたたかった曽祖父は勇敢な人であり、その弟は自分の家屋敷に放火して打ち壊した狂人であるという。「村全体の魂に責任をもつ」と書かれる寺の住職は、そもそも一揆は隣藩から潜入してきた工作者の企てたもので、曽祖父と弟は、あえて一揆を起こすことでそれ以上の混乱を避けようと、おたがいの役割を演じたのだとする。

 朝鮮部落の襲撃「事件そのもの」の解釈は前記の通りで揺らぎはないようだが、「S兄さんの死」の記憶は蜜三郎と鷹四の間には埋めようのない亀裂がある。鷹四によって語られるS兄さんは、水も光も泥さえも何もかも白い河原で、頭を打ち砕かれ腕を肩の上にかかげ走っているような足の形で死んでいる。無残な、しかしこの上なく聖化された美しい死である。それに対して、蜜三郎は、朝鮮人が死体を覆うために白い絹布をくれ、愛情をこめて死体をとりあつかったことは語るが、S兄さんの死体そのものは縮みこんで泥にまみれて血の匂いをたてていた、ときわめて即物的な表現をする。鷹四が語るS兄さんの死は、海軍帰りの年若いヒーローの死であり、蜜三郎のそれは、朝鮮人を一人殺してしまった谷間の村がバーターとしてさしだした犠牲者の死だったのだ。

 最後に鷹四とフットボール・チームの略奪の有様が記される。日当を払ってチームのメンバーを募り、訓練し、武器となりうる工具も揃えて、だが、略奪は二日間しか続かなかった。厳密には一日だけだったとも言える。そしてリーダーの鷹四は、略奪の蜂起が失敗に終わったことの責任をとって死んだのではなく、不可解な強姦殺人事件を起こして自殺したのである。いったい、この事件は何だったのか?鷹四と相対するスーパー・マーケットの天皇とはいったい何か?

 鷹四がスーパー・マーケットの天皇と会ったのは、谷間の村の若者が養鶏に失敗して鶏を全滅させ、その善後策を講じに町に出かけて行ったときが最初ではない。天皇が「偶然に」視察に訪れたアメリカで二人は出会っている。そして、そのときに鷹四は(兄の蜜三郎に無断で)郷里の倉屋敷を売る話をまとめているのである。物語の前半でさりげなく語られるこのことは、二つの意味で非常に重要である。一つは、根所家の人間にとって、谷間の村にはもはや帰るべき家はなかったのだということ。それから、「倉屋敷」という建物そのものだけでなく、鷹四は「土地」までも売って、まとまった代金を手にした、ということである。フットボール・チームのメンバーを養い、略奪を企て、実行した資金の出所はスーパー・マーケットの天皇その人だったのだ。鷹四と天皇との間には、万延元年の一揆における曽祖父と弟のような共犯関係はなかったのだろうか。現実に、事件の後スーパー・マーケットで売る日用品は二、三割も値上がりしたが、人々は、特に女たちはこぞってそれを買った。天皇は確実に谷間の村に対する支配力を強めたのである。「窪地は屈服した。」と作者は念をおす。

 スーパー・マーケットの天皇は、まず念仏踊りの「御霊」として登場する。鷹四が指揮した季節はずれの念仏踊りの一行が倉屋敷に繰り込んでくる。折口学まで持ち出して考証する「念仏踊り」と「御霊」の詳しい説明は省くが、要するに、村に厄災をもたらすとされる死者の霊を迎え、慰撫する行事である。死者の扮装をした村の若者が森から行列してくりだし、倉屋敷にたどり着いて円陣をなす観客の前で踊る。だが、やってくるのは本来死者の「御霊」であるのに、この季節はずれの念仏踊りのそれは生きているスーパー・マーケットの天皇とその妻なのだ。

 ホンブルク帽をかぶり何故かシャツを着ないで黒いモーニング・コートにチョッキという扮装の天皇を演じるのは、鶏を全滅させた養鶏グループのリーダーである。容貌魁偉の若者である彼が演じる天皇の「御霊」は次のように描写される。「かれは躰を丸めこみ上品な猫背でゆっくり歩きながら、四囲の観衆に威厳のこもった会釈を繰りかえす。」純白のチマ・チョゴリを着て天皇の妻を演じるのは、鷹四たちに占拠されたスーパー・マーケットの事務室で、散髪する鷹四の髪を新聞紙に受けていた「小柄な肉体派の娘」である。スーパー・マーケットの天皇の連絡係りだったのが、鷹四たちの協力者となり、天皇攻撃において勇猛果敢であるという。彼女の様子は次のように描写される。「猥らなほどあからさまに上気した桃色の魅惑的な谷間の娘は、注目の的たるスターの昂揚感にうっとりと微笑んで、眩しげになかば眼を閉じた小さな顔を青空にむけ優雅に歩いていた。」

 天皇の妻を演じた「肉体派の小娘」は不可解な強姦殺人事件の被害者として死んでしまう。一方現実の「スーパー・マーケットの天皇」は物語の最後に、はじめて密三郎の前に姿を現す。天皇が谷間にやってくる、という報告を受けて、村役場前の広場まで降りて行った蜜三郎が見た天皇は「踵に達するほどに長い外套の裾を蹴りながら、軍人のように規則正しく歩いてくる大柄な男」で「大きい袋みたいな鳥撃ち帽をかぶったかれの丸い顔は、遠眼にもあきらかに血色よく肥満している。」と描写される。そして、天皇と蜜三郎の会見は次のように記述される。「やがてスーパー・マーケットの天皇は僕の所在に気づいた。それはともかく僕が、かれと視線のあうことを惧れずにかれを待ちうけている谷間で唯一の人間だからだ。」「根所です。あなたと取引した鷹四の兄です、と僕は自分の意志に反して掠れてしまう声で切りだした。」

 ペク・スン・ギと名告る天皇の容貌は作中他に例を見ないほど詳しく描写される。「豊かな下瞼の上にゆったりと乗っかっている大きな眼」「頬から顎にかけてたっぷりと肉のついた陽気な顔」「白(ペク)の眉は濃く太く鼻梁も逞しいが、赤く濡れた小さい唇は娘のようだし耳は植物さながらみずみずしく、顔全体に若々しい生気を与えている」スーパー・マーケットの天皇の描写はなぜこれほど精細をきわめているのだろうか。

 根所家とスーパー・マーケットの天皇との関係についてはまだ考察しなければならないことがあって、それがこの作品の謎を解く最も重要な鍵であると思われる。それについては、自殺した友人の死体を前に友人の祖母が「サルダヒコのような」と言ったこと、顔を朱に塗り、裸で肛門に胡瓜を差しこんで縊死した友人の死に語り手の僕が最後までとらわれなければならなかったことの意味をも考えなければならない。とりあえずの備忘録その2として、今回は作中の天皇の描写を中心に書き留めてみた。

 今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
 


















 

2013年5月1日水曜日

『万延元年のフットボール』に見る暴力の克服____カインとアベルの神話の反復と超克

 『万延元年のフットボール』についてはすでにあまりに多くの人たちがこれを語り、評論している。いま現代文学にまったくの門外漢たる私が付け加えることなどほとんどないのだが、読了して得た深い感動の一端でも文字にしたい、という思いを禁じえなかった。もちろん、まとまった評論など書けるわけもないので、断片的な備忘録、ノートの体裁で箇条書きに近いものになるだろう。備忘録その1は、この作品を貫くもっとも骨太な構造としての神話「アベルとカインの物語」である。

 旧約聖書巻頭「創世記」は楽園を追放されたアダムとイヴが、二人の男の子を生み、兄をカイン弟をアベルと名づけたことが記される。兄のカインは地を耕してその収穫物を神に供え、弟のアベルは牧畜をして羊の初子を供えた。神はアベルの供え物に目を留められ、カインの供え物は無視したので、カインは憤ってアベルを憎むようになり、アベルを野に誘い殺した。カインがアベルを殺したことは神の知るところとなり、カインはアベルの血を受けた土地から追放される。神は「この土地が口を開けて、あなたの手から弟の血を受けたので、土地はもはやあなたのために実を結ばない」とカインを呪い、カインは放浪者となるが、「神はカインを見つけるものがだれも彼を撃ち殺すことのないように、彼に一つのしるしをつけられた」

 クリスチャンはこの説話をありがたい説教に変えて信仰の大切さを説くが、これは不思議な説話である。そもそもカインがアベルを憎むようになったのは、神がアベルの供え物だけをとりあげたからである。その上でカインになぜ憤るのかと問い、カインに「正しいことをしていないなら、罪が戸口まで来ているので、あなたはそれを治めなければならない」というのは理不尽ではないか。兄弟はそれぞれのなりわいにしたがって、供え物をささげた。それ以外の供え物があるはずはないのである。「罪が戸口まで来ていて、あなたはそれを治めなければならない」という言葉はカインに罪=殺人を教唆するものではないか。

 謎に満ちたこの説話が示す事柄は、楽園を追放されたアダムとイヴが生んだ子たちは一人は殺され、もう一人は生まれたその土地からまたも追放された、という歴史をヘブライの民は信じた、ということである。神は牧畜による供え物を喜ばれたが、牧畜をなりわいとする者は殺され、地を耕す者は牧畜をなりわいとする者を殺したが故にその土地に定着して農耕をすることを許されなかった。だが殺人者が放浪者として地上に生存する権利は保証されたのである。

 さて、追放された兄カインをこの作品の語り手である僕=根所蜜三郎に、弟アベルを鷹四になぞらえることはたやすい。「根所蜜三郎」というネーミングに「乳と蜜の流れる所___約束の地カナン」を連想するのは飛躍しすぎだろうか。第一章「死者にみちびかれて」の中で「僕」がみずからの右眼の視力を失ったいきさつを作者は「ある朝、僕が街を歩いていると、怯えと怒りのパニックにおちいった小学生の一団が石礫を投げてきた」と記す。片眼を撃たれて倒れ、「僕の右眼は白眼の部分から黒眼の部分にまたがって横に裂け、視力を失った」。だが、なぜそのようなことが起こったのか、その原因について語り手の僕は何もいわない。「現在に至るまで、あの事故の本当の意味を理解したと感じたことはない。しかもそれを惧れる気持がある」__惧れる気持?物語の出発点から語り手は自らの存在の根幹にかかわる何かを惧れ、惧れているという事実は示しながらそれ以外は隠微に隠したままの状態で最後まで語るのだ。ただ一つ「右眼が白眼の部分から黒眼の部分にまたがって横に裂け」ているという異形の相になったこと__「一つのしるしをつけられた」ことをまず述べるのである。それでは、聖書の記述にあるように、蜜三郎_カインはアベル_鷹四を殺したのか?

 「蜜、きみはなぜそのようにも俺を憎んでいるんだ?・・・おれたちは、根所家に生き残った、ただふたりだけの兄弟じゃないのか?」と叫んで、頭と顔を霰弾銃で打ち抜いて死んでいった鷹四の死はもちろん自殺である。蜜三郎が殺したのではない。だが、蜜三郎の妻菜採子は「蜜は鷹の自殺がもっとも惨めな恥ずかしい死になるように鷹を追いつめたわ。そのように惨めに死ぬほかないところまで、鷹を繰りかえし恥の輪の中におとしこんだわ」と弾劾する。その弾劾は正当である。いったい蜜三郎の憎悪の底にあるものは何なのか?鷹四をアベルになぞらえることが妥当だとすれば、鷹四とは何者なのか?

 「鷹四」とは不思議なネーミングである。「根所」「蜜三郎」も不思議なネーミングといえるが、「鷹四」はきわだって特異である。「鷹」という文字から猛禽類の鷹をまずイメージする。第2章「一族再会」の中で鷹四は「アナグマの毛皮(または模造皮)の衿をつけた上着に、デニムのズボンをはいた狩猟家のような弟」として登場する。彼の年少の友人星男は恐れることのない勇敢なヒーローとして彼を信奉する。事実物語りのなかで、鷹四は暴力と知力を用いて、有能なアジテーター=「悪の執行者」としてふるまうのである。だが「鷹四」というネーミングの喚起するものはそれだけではない。

 「鷹」_ホーク_ホルス=エジプト神話の最も偉大な神ホルスは天空と太陽の神であり、隼の顔をもつ。ホルスは、叔父または兄ともいわれるセトという神とたたかって左目を失う。母イシスの膝に抱かれる幼子として描かれることがあり、その姿がマリアとイエスに置換され、イエスの原型となったともいわれる。贖罪と死のイメージはイエスと鷹四(_鷹死)を結ぶ共通項である。万延元年の一揆では、鷹四の曽祖父は一揆の実行犯の若者たちを謀略をもって斬殺させたが、、リーダーたる弟は生き延びさせた。(つまり、カインはアベルを殺さなかった。)これに対し、鷹四の企てたスーパー・マーケットの略奪の場合は、だれ一人逮捕者を出すこともなかったが、鷹四は自死した。鷹四は死をもって、曽祖父と弟の罪を償ったのだ、といえないだろうか。

 結論を急ぎすぎたようである。この作品の重要な登場人物として、「僕」と「一卵性双生児のよう」だとされ、物語の冒頭で「朱色の顔料で頭と顔を塗りつぶし、素裸で肛門に胡瓜をさしこみ、縊死した」友人と「僕」の妻で鷹四の子を宿す菜採子、鷹四に倉屋敷の売却金を与え、略奪の軍資金を提供した(結果となった)スーパー・マーケットの「天皇」についてもふれなければならないが、長くなるのでそれらはまたの機会にしたい。

 今日も、未整理な備忘録に過ぎない文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。