『ライ麦畑でつかまえて』の続きを書かなければ、と思うのだが、その前にコクトーの「美女と野獣」についてもう一度見直さなければいけないような気がしてならない。映画「美女と野獣」の主人公は誰なのか?
「美女と野獣」というタイトルなのだから、「美女」と「野獣」の両方が主人公であって何の疑問の余地もない、というのが常識的な答えだろう。だがコクトーはこの映画を美女と野獣との「二人の愛の物語」にはしなかった。アヴナンという男を登場させて、ベルを挟んだ「三角関係の愛の物語」にしたのである。王子の姿に戻った野獣がベルに「(アヴナンを)愛していたのか?」と訊ね、ベルが「ウィ」と答え、「では野獣は(愛していたのか)?」と聞かれると、これにもベルが「ウィ」と答えるシーンがある。そして王子がベルのことを「変わった娘だ」というくだりになるのは前回書いた通りである。
今回気がついたのは、この前に王子が「人を野獣に変えるのも愛」「醜い男を美しく変えるのも愛」と言っていることである。この「愛」という抽象的な言葉は具体的には美女の「ベル」ということだろう。「ベル」こそが自分に想いをよせるアヴナンを野獣に変え、その「愛に満ちた眼差し」で野獣として死んだ王子を蘇らせたのだから。言い換えればベルはアヴナンと野獣(王子)の二人を操ったのではないか。主人公は「美女と野獣」の二人ではなく、「美女」ベルその人なのではないか。映画の中で何度も繰り返される「ベェ~ル」という言葉が、言葉そのものとしてというより独特の響きをもった音声としていつまでも耳に残る。
美女ベルが二人の男を操った、は言いすぎだとしても二人の男が美女ベルを仲介させて、一方は死に、一方は蘇ったというプロットを「対エスキモー戦争の前夜」と重ね合わせてみると、どんなものが見えてくるだろう?いうまでもなくこちらの主人公はジニー・マノックスである。このほうが分かりやすい、というよりむしろ誰も疑念はいだかないだろう。フランクリンが野獣でエリックがアヴナン、という図式をあてはめることもたぶん間違っていない、と思われる。問題はその次である。「対エスキモー戦争」でアヴナンのエリックは死んで、野獣のフランクリンは蘇って王子となり、ベルのジニーとともに「私(王子)の支配する国」に旅立ったのだろうか?むくむくと湧き上がる雲に乗って。
映画「美女と野獣」については、この他にもいくつか書かなければならないことがあって、「対エスキモー戦争の前夜」という作品を考えるにあたって大事なことなのだが、長くなるのでそれはまたの機会にしたい。今回はそのテーマを二つだけあげておきたい。ひとつは、サリンジャーが作中エリックに「あの映画だけは開演に間に合うように行かなくっちゃ。そうしないと魅力が台無しになっちまうもん」と言わせていること。観客は幕が上がる前から画面に注目することを要求されているのだ。最初からワンカットも見逃さないでほしい、といっているのが何故か、ということである。
もうひとつは野獣のバラに対するこだわりである。何故こだわるか、ではなく、こだわっているという事実そのものについて考えてみたいと思っている。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
2013年3月21日木曜日
2013年3月6日水曜日
『ライ麦畑でつかまえて』___サリー・ヘイズとは何か
ジェーン・ギャラハーとならぶこの小説の重要人物であるサリー・ヘイズについて、なかなか書けませんでした。書くことがないわけではなかったのですが、相変わらずの身辺雑事に追われていた、というのは言い訳で、サリー・ヘイズに関しては、スペンサー先生やジェーン・ギャラハーに比べてもう一つ魅力的な謎が見出せなかったからかもしれません。謎がないわけではないのですが、何故かどうしても書きたいと突っ込んでいく動機づけが自分自身のなかで作り出せなかった。
ひとつには、サリー・ヘイズがあまりにも見事に、具体的に描写されていて、彼女とのからみの部分はごく普通の通俗小説として読めてしまうからかもしれません。もしかしたら、というよりたぶんそれがサリンジャーの巧妙に隠されたねらいだったのでしょう。
ペンシーを脱け出したホールデンはいかがわしいホテルでサニーという若い娼婦を買うことになるのだが、うまく事が果たせない。それどころか、たった五ドルを惜しんだために、エレベーターボーイで客引きのモーリスという男に痛めつけられてしまう。一夜を散々な目にあって過ごしたホールデンは、サリー・ヘイズという少女に電話してデイトの約束をする。彼女から二週間前に手紙をもらっていたという。サリーのことは「あまり好きじゃないんだけど、何年も前からのつき合い」で「舞台や戯曲や文学やなんかのことをすごくいっぱい知ってた」ので頭のいい娘だと思っていたが、どうもそうではないらしい。
約束の時刻より十分遅れてサリーはやってきた。黒のオーバーに黒のベレーという黒づくめの服装で現れたサリーを見て、ホールデンは一瞬彼女との結婚を考えてしまう。彼女はとびきりの美人なのである。そして、そのことを彼女自身よく知っている。美人で家はお金持ちで知識だけは詰め込んでくれる学校に行っている女の子が通俗的でなかったら天と地がひっくり返ってしまう。だから、最初はタクシーのなかで「盛大な抱擁」を交わした二人だったけれど、ほんとうに心が通い合うはずもなかった。ホールデン自身それを望んでいたわけでもなかったと思われるのだが。
「どちらかといえば、つまんないみたい」な芝居を見ていた二人だったが、幕間にサリーが以前パーティで会ったという男を見つけて、彼と会話を始めたあたりから雰囲気は次第に険悪になる。インテリぶってエリート意識丸出しの男の風体も話し方もホールデンは気に入らない。まぁ、どんな男だろうがデイトに割り込んできた男を気に入るはずはないが。いやホールデンが気に入らないのは、次から次へ共通の知人と土地の名前をくりだして男との会話に夢中のサリーのほうだったかもしれない。
「二ブロックほども僕たちについて歩いて」きた男だったが、最後は二人と別れた。ホールデンはサリーをそのまま家に送るつもりだったが、彼女の提案でラジオ・シテイにアイス・スケートをしに行くことにする。サリーは、ラジオ・シテイで貸してくれるスケート用の短いスカートをはいた姿を見せびらかしたかったのだ。それはたしかに魅力的なスタイルだったが、悲劇的だったのは、二人ともスケートが際立って下手で、他のお客のさらしものになってしまったことである。滑るのはやめてバーで休むことにした二人だったが、ここでの会話が二人の間に横たわる溝を決定的にしてしまう。
「何もかもたくさんだっていう気持ち」「こっちでなんか手を打たないと、何もかもつまんなくなってしまいそうだだっていう、そんな不安」を訴えるホールデンにたいして、サリーは通り一遍の受け答えしかしない。自らをとりまく現実のすべてを嫌悪するホールデンは、サリーに一緒にニュー・ヨークから脱出しようと誘う。いますぐ、とび出して「小川が流れてたりなんかするところに住」んで、冬は自分で薪割りをするような生活をしようと語るホールデンだが、サリーは一顧だにしない。ごく常識的に、そういう生活は大学を出てからすればいい、と言うのだ。ついにホールデンは「正直いって僕は、君と会ってるとケツがむずむずするんだ」というセリフをはいて、彼女を泣かせてしまう。さらに悪いことに、泣きだした彼女に必死で謝っていたホールデンだったが、突然大声で笑いだしてしまったのである。もう、こうなっては万事休す、だ。デートは最悪の結果に終わったのである。
そもそもサリーはホールデンが嫌悪するような生活を嫌がるどころか大好きな人間のように見える。ホールデンも彼女がそういう人間であることをよく知っていた。それなのに、どうしてデイトに誘ったのだろう。というより、そんな彼女と何年間もつき合ってきたのはどんな事情があるのだろうか。ホールデンはサリーの父親と知りあいのようだから、家族ぐるみのつき合いだろうか。サリーがホールデンにクリスマス・イヴにツリーの飾りつけに来てくれるかどうかを突然聞き出すくだりがある。二週間前に彼女が書いた手紙というのも、そのことに関するものだったのかもしれない。それにたいしてホールデンも手紙を書いて行くと返事をしたと言っている。いったんサリーと別れた後、酔っ払ったホールデンは深夜彼女の家に電話して、しつこいほどイヴに飾りつけに行くと繰り返す。クリスマス・イヴにツリーの飾りつけをするため他所の家を訪問することにどんな意味があるのだろうか。
喧嘩別れになったけれど、ホールデンはまたサリーに会うのだろう。何年もそうやってつき合ってきたのだろうから。なんだか十代の少年少女の他愛ない恋愛ごっこというよりも大人の男女のくされ縁といった趣があるのも不思議なことである。
出来事の上っ面をなぞっただけの不出来な文章です。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
ひとつには、サリー・ヘイズがあまりにも見事に、具体的に描写されていて、彼女とのからみの部分はごく普通の通俗小説として読めてしまうからかもしれません。もしかしたら、というよりたぶんそれがサリンジャーの巧妙に隠されたねらいだったのでしょう。
ペンシーを脱け出したホールデンはいかがわしいホテルでサニーという若い娼婦を買うことになるのだが、うまく事が果たせない。それどころか、たった五ドルを惜しんだために、エレベーターボーイで客引きのモーリスという男に痛めつけられてしまう。一夜を散々な目にあって過ごしたホールデンは、サリー・ヘイズという少女に電話してデイトの約束をする。彼女から二週間前に手紙をもらっていたという。サリーのことは「あまり好きじゃないんだけど、何年も前からのつき合い」で「舞台や戯曲や文学やなんかのことをすごくいっぱい知ってた」ので頭のいい娘だと思っていたが、どうもそうではないらしい。
約束の時刻より十分遅れてサリーはやってきた。黒のオーバーに黒のベレーという黒づくめの服装で現れたサリーを見て、ホールデンは一瞬彼女との結婚を考えてしまう。彼女はとびきりの美人なのである。そして、そのことを彼女自身よく知っている。美人で家はお金持ちで知識だけは詰め込んでくれる学校に行っている女の子が通俗的でなかったら天と地がひっくり返ってしまう。だから、最初はタクシーのなかで「盛大な抱擁」を交わした二人だったけれど、ほんとうに心が通い合うはずもなかった。ホールデン自身それを望んでいたわけでもなかったと思われるのだが。
「どちらかといえば、つまんないみたい」な芝居を見ていた二人だったが、幕間にサリーが以前パーティで会ったという男を見つけて、彼と会話を始めたあたりから雰囲気は次第に険悪になる。インテリぶってエリート意識丸出しの男の風体も話し方もホールデンは気に入らない。まぁ、どんな男だろうがデイトに割り込んできた男を気に入るはずはないが。いやホールデンが気に入らないのは、次から次へ共通の知人と土地の名前をくりだして男との会話に夢中のサリーのほうだったかもしれない。
「二ブロックほども僕たちについて歩いて」きた男だったが、最後は二人と別れた。ホールデンはサリーをそのまま家に送るつもりだったが、彼女の提案でラジオ・シテイにアイス・スケートをしに行くことにする。サリーは、ラジオ・シテイで貸してくれるスケート用の短いスカートをはいた姿を見せびらかしたかったのだ。それはたしかに魅力的なスタイルだったが、悲劇的だったのは、二人ともスケートが際立って下手で、他のお客のさらしものになってしまったことである。滑るのはやめてバーで休むことにした二人だったが、ここでの会話が二人の間に横たわる溝を決定的にしてしまう。
「何もかもたくさんだっていう気持ち」「こっちでなんか手を打たないと、何もかもつまんなくなってしまいそうだだっていう、そんな不安」を訴えるホールデンにたいして、サリーは通り一遍の受け答えしかしない。自らをとりまく現実のすべてを嫌悪するホールデンは、サリーに一緒にニュー・ヨークから脱出しようと誘う。いますぐ、とび出して「小川が流れてたりなんかするところに住」んで、冬は自分で薪割りをするような生活をしようと語るホールデンだが、サリーは一顧だにしない。ごく常識的に、そういう生活は大学を出てからすればいい、と言うのだ。ついにホールデンは「正直いって僕は、君と会ってるとケツがむずむずするんだ」というセリフをはいて、彼女を泣かせてしまう。さらに悪いことに、泣きだした彼女に必死で謝っていたホールデンだったが、突然大声で笑いだしてしまったのである。もう、こうなっては万事休す、だ。デートは最悪の結果に終わったのである。
そもそもサリーはホールデンが嫌悪するような生活を嫌がるどころか大好きな人間のように見える。ホールデンも彼女がそういう人間であることをよく知っていた。それなのに、どうしてデイトに誘ったのだろう。というより、そんな彼女と何年間もつき合ってきたのはどんな事情があるのだろうか。ホールデンはサリーの父親と知りあいのようだから、家族ぐるみのつき合いだろうか。サリーがホールデンにクリスマス・イヴにツリーの飾りつけに来てくれるかどうかを突然聞き出すくだりがある。二週間前に彼女が書いた手紙というのも、そのことに関するものだったのかもしれない。それにたいしてホールデンも手紙を書いて行くと返事をしたと言っている。いったんサリーと別れた後、酔っ払ったホールデンは深夜彼女の家に電話して、しつこいほどイヴに飾りつけに行くと繰り返す。クリスマス・イヴにツリーの飾りつけをするため他所の家を訪問することにどんな意味があるのだろうか。
喧嘩別れになったけれど、ホールデンはまたサリーに会うのだろう。何年もそうやってつき合ってきたのだろうから。なんだか十代の少年少女の他愛ない恋愛ごっこというよりも大人の男女のくされ縁といった趣があるのも不思議なことである。
出来事の上っ面をなぞっただけの不出来な文章です。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。